アルカディア学報
対面とオンライン
大学と社会の双方向的対話を
コロナ禍にあって、大学では2020年度春学期にオンライン教育が一挙に普及・定着した。大学での学びを止めないという関係者の強い思いと献身的な努力の賜物だ。秋学期では、対面とオンラインのハイブリッド型教育の在り方が模索されている。
そんな中、文部科学省は10月に、秋学期の調査において対面教育への復帰の動きが十分でない大学名を公表する姿勢を示した。11月には萩生田文部科学大臣が国公私の各大学団体のトップと面談し、対面教育の再開を求めたという。
経済を何とか再起動しようと悪戦苦闘を続ける社会の中で、また、2021年に延期された東京五輪の開催予定時期が迫る中で、既に小・中・高は感染対策を講じつつ平常授業に復帰している。なぜ大学のみがキャンパスの(一部)閉鎖やオンライン授業を続けているのか、学生たちの不平・不満を置き去りにしているのではないか、というわけだろう。この様子では、「大学のガバナンスがなっていないために機動的な意思決定ができないのではないか」あるいは「社会の要請に十分応えようとしない大学に貴重な税金を投入する必要があるのか」などという見当違いな声すら出てきかねないと心配になってくる。
調査・公表の動きへの大学側の対応はどうだろうか。もちろん反発する関係者は多かったことだろう。しかし、中には急いで対面教育へ復帰する科目の比率を高めた大学があったかも知れない。いずれにしても、オンライン教育推進の努力を放棄する必要は全く無い。実際、萩生田大臣も記者会見(10/16)では「決してオンラインが悪いということではない」「対面も取り交ぜたハイブリッドな授業をやってもらいたい」「大切なのは受け手となる学生の満足感や納得だ」等と強調している。いずれももっともな指摘だ。
では、何が問題なのか?大学と社会との双方向的な対話の不足だと思う。
秋学期の対応に関連した大学側の事情を思いつくまま列挙してみよう。
①大学では、春学期に多大な努力を傾注してオンライン教育を一気に導入して緊急事態を何とか乗り切ったばかり。感染状況を見れば方針の継続は妥当。
②高校以下と違って大学生の行動範囲は広い。再開によって大学寮や課外活動、会食等でのクラスター発生を誘発する可能性はまだ否定できない。
③高校以下と違ってクラスサイズがもともと一定しておらず、多人数講義の少人数化や分散授業等のための人員や施設・設備面のハードルが大きい。
④大学は、小・中・高・大という単線型教育システムの一部分で高校と就職の中間の時期、という性格に止まるものではない。単純な横並びの考え方は適当でない。
しかし、これらの(言わば消極的な形の)理由だけでは学生や社会一般に対して説得力が十分とは言いにくい。今後は、オンライン教育の導入・普及で大学の何が良くなるのか、メリットを明確にしていく努力が必要だ。例えば、次のような方向はどうだろうか。
⑤オンラインの急速な導入・普及の思わぬ(?)副次的効果で、授業内容・方法の改善が抜本的に進んだ。オンデマンド教材の工夫、オンタイムとオフタイムを連動させた学修指導、課題・レポートや添削指導による学修量の確保及び学生の理解度の向上等により、本来は平常時の対面教育でも必要だったはずの「単位の実質化」が一挙に実現しつつある。このことは各大学のFD研修会等の活況からも明らかだ。日本の大学教育の長年の課題を今こそ解決すべき。
⑥新型コロナの第3波以降や将来あり得る別種のパンデミックへの備えを考えれば、平常時は対面寄り、緊急時はオンライン寄りというふうに、感染状況に応じて段階的に切り替えられるレジリエントなカリキュラム設計がニューノーマルでは必要。講義、語学、ゼミ、実験・実習、実技等の別によってオンラインとの親和性は異なるが、秋学期の実践を通じて具体的な目途が立てられる。
⑦越境性を本質的要素に含む「大学という理念」(吉見)と時間・空間をたやすく超えるオンラインとはもともと相性が良く、オンラインの恒常的な活用は世界標準となって既に久しい。国際交流や共同研究の推進、社会人・留学生を含めた学生の多様化等、日本で特に遅れが目立っていた部分を挽回する千載一遇のチャンス。欧米との交流ばかりでなく、(時差の少ない)東アジア・アセアン諸国・オセアニアで有力な高等教育圏を戦略的に形成することも夢ではない。
こういった点を具体的にアピールすると同時に、大学そして大学人は、学生や社会の側の事情をも十分に受け止めていかなければならない。
まず、感染対策をしっかりと講じつつ、一定範囲でのキャンパスライフの再起動方策は何らか検討すべきだ。また、オンライン教育がいくら有効でも、ほとんどの科目がオンラインというのは決して常態ではないだろう。
特に、今年度の1年生と来春の新入生のサポートは重要だ。経済的支援や相談体制の充実はもちろんのこと、初年次教育の補充は卒業時点までのトータルできめ細かく対応すべきだ。
さらに、授業料や施設整備費等の学生納付金が何の対価で、どういう考え方に基づいて設定されるのか、丁寧な説明が引き続き必要だ。場合によっては、その過程で得られた学生や保護者の反応を元にして費目の分類・名称等につき再整理が必要となるかも知れない。「丁寧な説明」で納得を得るには「双方向性」も重要な要素であろう。
加えて、自大学の個性・特色や目指すべき役割・機能に相応しいオンラインの活用の程度や在り方を、カリキュラム・ポリシーやディプロマ・ポリシーとの関連で対外的に説明していく必要も出てくるだろう。対面とオンラインのベストミックスの線は一様ではない。実技系の大学では対面の比重が高いはずだし、社会人学生を想定した大学院教育ではオンラインは強力な武器だ。今後は、平常時の大学選択の上でも、その大学が対面とオンラインをどう位置づけているかは大きな要素となっていくことだろう。
併せて、大学設置基準上の特例の今後の取扱いや、大学通信教育設置基準の在り方を含めた国の制度的対応への提案・要望を大学側として発信していくことも重要な役割だ。
ところで、今年4~6月にかけて論議を呼んだ9月入学の問題は、決して単なる(政治的な)ドタバタ劇ではなく、教育制度・財政上の諸論点を掘り起こした上で、この問題が一大社会変革を必要とすることを広く共有する意味で、大きな意義があったと思う。政府でも、中長期的な視点で腰を据えた検討が改めて進められつつある。
対面とオンラインの問題も全く同様だ。大学の授業は、「不要不急」だから仕方なくオンラインへ移行したわけでは決してないし、経済再起動のために遮二無二対面へと復帰すべきものでもない。
11月末の時点で調査・公表の結末はまだ見えていない。各大学の試行錯誤も様々な形で続くことだろう。10月以降の第3波が急速に深刻化する中で、対面教育の再開に向けた政治的・社会的な圧力は短期的に弱まる可能性もある。しかし、喉元過ぎれば何とやら、で済ませていては実りが無い。
緊急時の危機管理対応としてだけでなく、その努力を更に継続・発展させて、人類史上の宝である大学という「学問の府」(安原、ロウ)が同時代の社会との対話を深め、理解と支援を継続的に得る関係を再構築していくきっかけとしたいものだ。