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アルカディア学報

No.68

私学経営考―教授法の開発組織を設立できるか

前早稲田大学副総長  村上 義紀

 大学の職員として38年余事務の現場にあって退職し、早や9か月が過ぎた。退職後の今も、日本の、とりわけ私学の存立と大学教育の質をどう向上させるか、そしてその向上のためにいわゆる職員が尽くすべき新しい仕事は何かについて、考えることが多い。
 そこで、大学教育の質向上の方策として、例えば教授法を開発する新しい組織を設立するとしたら、私学にどんな経営上の問題があるか、を事例的に考えてみたい。
 これは、私学経営に当たる者は常に直面してきたことであるので、今さら述べることでもないが、経営に関心のない方々にとっては、なかなか理解しがたいことのようである。
 この教授法の問題は、私学にあっては、緊急の課題であったにもかかわらず、その理論的な研究や、実践的な取組みはほとんどなされなかった。
 私の勤務した大学では昭和40年代の大学紛争をきっかけに大学問題研究資料室を設置はしたが、専・兼任の研究スタッフはもとより置けず、やっと事務職員を兼務で配したに過ぎなかった。ましてや教授法を研究するセンターを設置したいと、教学の会議体(学部長会)に諮ることなど、とんでもないことであった。なぜか。
 センターに教員系列の研究スタッフを新規に採用する余裕があるなら、学部の教員を増強しろと、各学部から噴出し、収拾がつかなくなる。学部の教授会は、理事会の背後にある、隠れた実質的な経営者集団であるからである。
 ところで、昭和40年代、今から30年以上も前のことであるが、大学紛争が世界的に起こった。とりわけアメリカでは、大学の大衆化とヴェトナム戦争の徴兵問題が絡み、激しかった頃、カリフォルニア大学バークレイ校の大学本部前で、学生はフリースピーチを求めて抗議の座り込みをしたことがある。
 この時すでに、とくに学部学生に対する教授法(ティーチング)のあり方の問題が論議されていた記憶がある。新入生には、本の読み方だけでなく、速読の仕方までも訓練し、論文の書き方までも教えていたのだ。
 同時に、ティーチング・アシスタントを含む教師陣のために、教授法の開発研究と学生のための学習法(ラーニング)の研究と実践が積み重ねられて今日に至った。この種のセンターが、今では、多くの大学に置かれていることをホームページで知った。一方、日本の私学はどうか。
 アメリカの学生に呼応するように、日本の大学も過激な学生運動の嵐に見舞われた。大学は身体を丸め、ただ大学論を論議しただけで、結実するような成果物にはならなかった。ましてや自分たちの授業の仕方が悪いのではないか、などは論点にもならなかった。授業の仕方を論じるほど大学も豊かではなかった。もっとも学生の質が落ちたと嘆くことはあっても、教授陣に授業の仕方を開発して教えるなど、だれも恐れ多くて口にできなかった。教室は「教授の自由」の名のもとに、だれも立ち入ることのできない聖域であった。今も、そうは変わるまい。
 この間、教授の中には、よい教育をしたい、との熱い思いから、個人的に研究され、実践されている方はあったが、大学はそれに組織的に応えることは、経営上からも出来なかったこともまた、事実である。
 これは、どこの私学も新しい事業を始める場合に直面する問題であり、ここにその質を向上させようと思ってもできない問題が凝縮されている。
 教育事業は一度始めたら止められない。継続しなければならないから、それが将来も経営できるかどうかの検討は事前になされたに違いなかろうが、長期的にみれば、経営困難と思われる事業を結果的に選択し、量的拡大をして私学は生き延びてきた。
 だがそれは、教育の質を悪魔に売り渡すことになった。別の言葉でいえば、上げ底の、あるいは中身の薄い教育によって日本の大学の大衆化をはかり、しかも私学が大部分を背負う形で、世界に例を見ない高等教育の発展であったといえる。
 今、少子化が目前に迫り、大学に全員入学するこの時になって初めて、教授法や学習法が、質確保の問題としてようやく論じられることが多くなったのはなぜか、あまりにも歴史に学ぶこと遅く、事実を正視しないで過ごし、変わらないのはなぜか、としきりに思う。
 そこで、高等教育関連のセンターがないか国立大学のホームページを調べたら20大学あった。
 さすがに国の国立大学への配慮は違う。着々と整備されている。
 このようなセンターは、学生が圧倒的に多い私立大学こそいち早く設置され、研究されてしかるべきだったのに、まだ無いに等しい。
 国立のこれらのセンターは大変手厚く、研究にもっとも重要である専任の教員と事務スタッフを初めから置いている。これが当然であるとはいえ、国の予算によって人件費が賄われるからこそできることである。国立大学は、打出の小槌を持っているようである。
 私学が、学生を抱えない組織を新設するとき、私が勤務した大学に例をとれば、学部等の全機関の同意、了解が必ず必要であった。私学の経営は、学部学生の学費に支えられているからである。重ねていう。各学部こそが私学の経営者集団にほかならないのだ。
 さらにもう一例、学部を基礎とするいわゆる2階建ての大学院研究科の設置ではなく、独立大学院の創設を考えてみよう。これは学部の創設と同じで、学費収入が少なくても固定費である教・職員経費とバランスが取れなければ、他学部学生の学費の一部がこの研究科のために消費される。結果的には学部学生の教育条件を悪くすることになるので、研究科といえども学生定員は多くなる。
 このことを既存の学部教授会は知っているため、先に述べたように学部教授会の一人ひとりのメンバーは隠れた学部の経営者であるともいえるから、自分に直接関係ない箇所の機関や組織の新設には、大体、猛反対することになる。
 すなわち私学における新組織の設立は、スクラップ・アンド・ビルドで進めない限り拡大をもたらすことになり、将来の大学経営を危うくする。しかし、教育事業ほどスクラップすることが難しいものはない。
 これは偏に、予算配分の問題に帰着する。
 もう一つは、職員の問題である。高度成長期の大学はいざ知らず、今では増やせないどころか、現状維持でもなく、減員の時代である。それでも時代の要請に従って、どうしても全学的な組織が必要な場合は、ある組織から引き抜き、後任の補充はされないことが多い。
 これでは労働条件が悪くなるから、労働組合との争点となり、後々まで引きずることになる。
 こうした事情から、一私学が単独で国立と同じようなセンターを設立することは、ほとんど不可能といえる。
 だが私学は、これ以上教授法の研究と実践をないがしろにすることは出来ないところにある。
 それでは、私学経営の難しさを克服して解決する道はあるか。
 私学は、個人のものではない。国家を支えている国民のものである。国民の共同事業である。
 私立大学は国立大学を補完するものではない。国は、むしろ国立のカウンターパートとして私学を育成する責任がある。それが国家の教育政策ではないか。早急に、国民の教育を大きく担い、国家の発展に貢献してきた私学の教育の質を一層強くする、教育政策が必要である。
 もとより私学にある者は、私学が国民がよって立つ大学である、と自覚すればこそ、時代の変化にいち早く対応して国民の期待に応えたいものである。
 そこで、「国家百年の計」の教育政策として、例えば「共同利用高等教育研究教育センター(複数)」の設立援助を私学が要請してもおかしくなかろう。そして特に学部学生への教授法と学生自身の学びの研究と実践を私学のセクターでも早急に開始してほしい。
 ここに、これからの職員の新しい仕事がある。
 最後に、法人化後の国立大学に講じられる全ての免税措置が、同じように私学にも適用されることを願う。そうでなければ、競争の前提条件が違い過ぎて競争の舞台に上ることは出来ない。それは不公正というものである。同じルールを前提として初めて競争が成立し、後の評価・判定が可能となる。
 国民総体の力を引き上げるためにも裾野を広くして質の向上を図る国の政策であって欲しい。そうして、日本の私学に学ぶ圧倒的多数の若者の未来にかがり火を灯してやりたい。