アルカディア学報
生涯研究の時代 OJTからORTへ
スティグリッツのラーニング・ソサイエティ
ノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツがグリーンウォルドと共に『CREATING A LEARNING SOCIETY(学習社会を構築する)』という本を著している。その訳本が『スティグリッツのラーニング・ソサイエティ―生産性を上昇させる社会』(薮下史郎監訳、東洋経済新報社2017)である。教育関係者にも有益な本だが、難解理論の一つとされる動的マクロ均衡理論の専門書であり、話題も多岐にわたるので、「人や研究への投資が国の成功を決める」という主題の動的経路を見通すのはかなり難しい。それを解説する資格は私にないが、私がどのような知的刺激を受けたかを紹介し、その刺激を私なりに展開し、そこから大学教育のあり方を問題提起するのは許されると思う。
ここでは、二つの知的刺激だけを紹介する。一つは、学習が経済の動的メカニズムを動かすということである。主流派の新古典派経済学では、市場の完全競争によって、すべての企業が最も効率的な資源配分を達成し、ベスト・プラクティスを採用すると想定している。すべての企業がベスト・プラクティスを採用できるなら、学習を考慮する必要性が出てこない。しかし、現実の企業社会では、生産要素の質が同じでも、ベスト・プラクティス企業とそうでない企業との間に大きな生産性格差がある。この生産性格差をなくし、ベスト・プラクティスに近づくためには、完全競争ではなく、学習が不可欠だとしている。
第二に、学習とは「考え方を変える」ことだといえる。スティグリッツは、「学び方を学ぶ」ことが重要だとたびたび指摘しているが、学習の概念を整理するには、やや扱いにくい。他の文脈で「考え方を変える」必要性も語っている。こちらの方が学習の多様性を考えるのに分かりやすいと思う。
考え方を変える方法―四つのモデル
学習によって近代の経済成長を説明するのは非常に面白いと思うが、近代化のプロセスでは、学習スタイルも大きく変わる。教育研究の文脈からすれば、学習の動的メカニズムも視野に入れる必要がある。そこで、「考え方を変える」という視点を導入してみよう。「考え方」は「規範を帯びた知識の集合体」だとし、その考え方が変わるのは、「自己と他者との対話」によるとする。自己が「ある考え方」を「知っている」場合もあれば、「知らない」場合もある。他者も同様に、知っている/知らない場合がある。この二つの区分を想定すれば、自己と他者との関係は、四つのモデルに類型化できる。
表にみるように「知っている」自己が「知らない」他者との対話によって他者の「考え方を変える」のが教授(=啓蒙)。その逆がモデル2の学修(=勉強)。それに対して、両者が「知らない」ところで対話しつつ「考え方を変える」のは研究であり、未知の世界の探検である。モデル4は、両者とも知っている常識だが、常識は疑いつつ対話すべき事柄であり、常識を疑うことのない研究はない。モデル3と4は表裏一体になっている。
この四つのモデルを日本的経営の要である企業内教育にあてはめてみよう。戦後の日本の経営は、西洋に追いつくことが目標であり、追いつくための企業内教育は、西洋を教師にした研修という学修モデル。1980年代に日本的経営礼賛の時代が到来したが、その経営を支えたのは、長期雇用を前提にした内部人材の育成だった。企業の人事課が元気だった時代で、余計な専門知識(色)がついていない白無垢の花嫁のような学生ほど教えやすいと豪語していた。この頃の企業内教育は、OJT(On the Job Training)と階層別教育の二本立て。この二つが有効に機能したのは、社内に信頼できる正統な考え方が存在すると信じられていたからである。「上司は教師である」という教育的人間関係が日本的経営を支えていた。
ところが、この長い経済不況で、今までの正統な考え方では会社が生き残れないような出来事が増えてきた。企業内教育の投資が縮小するだけでなく、OJTと階層別教育で生産性が上昇するという実感が希薄になっている。新しい考え方を教授してくれる教師を見つけるのも難しく、信頼できるリーダーも出てこない。機械学習の言葉を借りれば、正解を教えてくれる「教師あり学習」から正解なしに自己学習する「教師なし学習」に変化したかのようである。表でいえば、教授/学修の二つのモデルだけでなく、未知の世界を探検する研究モデル3、および常識を懐疑するモデル4が重要になっている。
生産性格差の是正と学習
スティグリッツによれば、企業の生産性を向上させる一つの要件は、ベスト・プラクティスに近づける努力である。生産性は「やり方を変える」ことによって上昇するが、「やり方を変える」のは「考え方を変える」のと同じことだとしておく。ベスト・プラクティス企業が具体的な目標になれば、それを教師にするのは経営の常道だが、学修のモデル2だけで生産性が上昇しなくなっている。生産要素の質が同じでも生産性格差が生じるのはなぜか、という問いの答えはかなり複雑だ。スティグリッツは「学習だ」と答えたが、個別の状況によって「そこで必要な学習」は異なってくるだろう。重要なことは、個別の状況に応じて「なぜか」を問い続けることだ。問い続けながら、分からないもの同志が一緒に探検するのがモデル3の研究である。スティグリッツのラーニングには、研究が含まれている。
問題解決は研究である
よく分からないけれども、知らない者同志が知恵を出し合って、現場を調べて情報を収集し、常識化した既成概念に囚われずに、情報を組み立て、そこから問題を発見し、解決策を提案し、検証する。この一連の問題解決プロセスが「研究という名の仕事だ」と喝破したのは、文化人類学者川喜田二郎である。今から50年も前のことである。川喜田二郎先生(親愛をこめて、KJ)は、紛争当時の大学の危機的状況を切実に受け止め、東工大教授の職を辞して、行動を起こした。「居住性のよいテントを使った臨時のキャンパスで、東工大の学生諸君に、私の野外科学的問題解決学の教育をしてやろう」と考え、「移動大学」の旗を揚げた(川喜田二郎著作集8『移動大学の実験』中央公論社1997年)。二週間のテント生活を通して、チームワークと野外科学の手法であるKJ法と問題解決学を学ぶ大学である。
発起人の一人でもあった私は、移動大学に三回ほど参加させていただき、KJ法と問題解決学の思考を深く学ぶことができた。この時の経験が、私の研究人生を支える財産になっている。因みに、最近流行っている「デザイン思考」「デザイン経営」という輸入語の内容は、KJの野外科学的問題解決学とほぼ同じである。
生涯研究の時代
「学び方を学ぶ」には、何をすればよいか。学ぶ経験を蓄積すればよい。OJTが有効なのは、現場の学び経験が繰り返されるからだろう。研究する力をつけるには、何をすればよいか。海外の文献(=教師)を探す前に、現場の情報を収集し、探検することである。研究の面白さは研究の実践によってはじめて分かる。OJTは今でも重要だが、未知の世界を研究する力をつけるためは、上司・同僚と共に探検しながら、「考え方」「やり方」を変更していくしかない。つまり、On the Research Training(ORT)が、研究力を高める優れた方法だと思う。予測不可能な時代の到来は、生涯研究の時代である。
企業だけではなく、大学も同じグリーンに立っている。大学が大衆化したから教育と研究は分離するのが望ましい、という説が強くなっている。しかし、学修モデルの改革だけでなく、研究と懐疑のモデルを重視するのが賢明だろう。高校までは学修中心でよいが、研究のない大学は大学ではない。ところが、研究の見直しが議論されても、大学院だとか、科学技術イノベーションの話になりやすい。それはもちろん大事だが、未知の学術分野の探検だけが研究ではない。目の前にある未知の現実社会の探検も研究である。未知の地平を知ることがORTの最も大切なポイントだ。「教師も知らないんだ」と学生が知ることは研究の動機づけとしてとても重要。「学生の前では決して知らないとは言わない」という権威主義的教授もいるが、あまり賛成できない。
大学におけるORTの一つが卒業論文研究である。東京薬科大学で大規模な卒業生調査を実施しているが、一つのねらいは、卒業論文研究の効用を明らかにするところにある。「大学での学びは、現在、どのように生かされていますか」という自由記述欄の言葉をKJ法でまとめると「(研究室教育で学んだ)研究力が仕事力に通じている」という語りの一群が浮かんでくるし、アンケート調査の数字をみても、卒論の達成レベルが高い者ほど仕事の汎用能力も高いことが分かる。研究するには、言葉を組み立てるKJ法と数字を組み立てる統計の二つが強力な武器になるが、こうした武器を磨くためには、学部の低学年からORTを重ねるに限る。
「生涯研究」という言葉は、移動大学のテント村に掲げられたKJの言葉の一つである。今年はKJ生誕100年。先生の先見性に改めて感服している。