アルカディア学報
FDとは継続的な改善
~アメリカのFDの過去・現在・未来~
はじめに
帝京大学学修・研究支援センター設立記念として、6月16日、八王子キャンパスのソラティオスクエアで、「学習パラダイム」提唱者のジョン・タグ博士と授業設計第一人者のディ・フィンク博士をアメリカから招き、国際シンポジウムを開催した。フィンク博士の講演はアメリカにおけるFDの過去・現在・未来についてであった。
なぜ、FDが必要になったか
大学ポストに就く教員は、大学院で研究した後、教壇に立つことが多い。大学院では多くの研究指導がされるが、どのように教えるかは十分な指導がなされない。したがって、指導教官や先輩の教授法を模倣することが多い。しかし、大学に採用されると研究も教育も担う。すなわち、新任教員には教える準備が十分できていない。たとえば、医学部においては、過去の症例は通用しない。何か新しい実証的研究にもとづいたものでなければならない。今回、飛行機で来日したが、機内で安心して過ごせたのは、パイロットが厳しいトレーニングを受け、安全のために十分な訓練を受けていることを知っているからである。同じ視点で、大学教育でもFDが重要と考えられるようになった。
1970年代にアメリカで最初にFDプログラムがはじまったのは、大規模な州立大学においてであった。多くの親が子どもを大学に送ったが、研究だけが重視され、十分な教育を受けさせていないとの批判が発端であった。大学側は、教員には十分な研修を受けさせ、他の大学よりも優れていると反論した。
近年の動向
フィンク博士がいたオクラホマ大学では、1980年ころまで教員研修は個別コンサルティングが中心で、時々、ワークショップで教授法やアクティブラーニングや評価方法などをサポートした。オクラホマ大学で教員に最も人気があったのが、「ファカルティ・ランチ」と呼ばれるもので、ランチを持参して授業の悩みを共有するというものであった。驚くことに、互いに話し合ってみると、同じような悩みを抱いていることがわかった。教員の役割は指導することではなく、グループでの議論をリードしてファシリテーターになることである。
1975年にはFDに関する組織的な団体であるPODネットワークが設立された。近年では学部での問題をサポートすることが有益であることがわかった。
なぜなら、認証評価機関で到達目標の明確化が求められるようになったが、学部での到達目標の立て方がわからないとの要請があったからである。そこで学部に出かけてカリキュラムサポートをはじめた。
もう一つのエキサイティングな取組みは約10年前、FD研修のための修了証プログラムがはじまったことである。過去にもFD研修はあったが、これまでのものとは違った。それはワークショップをパッケージ化したものであった。たとえば、ミネソタ州セントポールでのPODネットワークとの共催プログラムでは、3、4年未満の教員を対象に、1週間の初任者教員研修プログラムをはじめた(注:これは2009 Institute for New Faculty Developers,Held in Saint Paul,Minnesota,June 21-26,2009を指すもので、筆者も参加した。その時の基調講演者がジョン・タグ博士であった)。八つの異なるワークショップが提供された。たとえば、小グループの使い方、学習評価方法、インストラクショナル・テクノロジの使用法、多様な学生への対応などであった。参加教員は、その中から六つのプログラムを修了しなければならなかった。また、それぞれのワークショップで、外部評価者から内容や活動についてのフィードバックやコメントを与えられるというユニークなものであった。さらに、ワークショップで学んだアイデアを自分の大学に持ち帰り、授業で実践して、そのデータを収集し、学生や学習にどのようなインパクトを与えたか、実証的な研究成果を参加者と共有する、いわゆるSoTL(Scholarship of Teaching and Learning)へとつながった。
ここ数年は、小規模ではあるが、新たな教室棟を建設する動きが見られる。これはアクティブラーニング兼用棟のことである。従来の教室設計は、教員と学生が向き合い、学生同士は後ろ姿しか見えない授業形態が多かった。これでは能動的でエキサイティングな学習など望めない。この新しい教室棟の特徴は机と椅子が可動式であること、小グループで議論できる設計であること、そしてインストラクショナル・テクノロジを備えていることなどである。さらに、アクティブラーニングを促すために、側面ホワイトボードを活用するようになった。書くスペースを作ることは、学生のアイデアを「見える化」するために有効である。これは教員研修の場合も同じである。ホワイトボードがなくてもテーブルにコンピュータ・スクリーンを取り付けて、ノートパソコンをスクリーンにつなげ、互いの意見を共有することができる。これらの特徴は自分のアイデアを可視化し、仲間と共有することで、自己発見につながるというものである。
アクティブラーニングの興隆
アメリカはFDを40年間も実践している。この間の歴史を振り返ると、1970年代および80年代には特に優れた教授法に関する文献はなかった。その中で心理学教授ウィルバート・マッキーチ(Wilbert J.McKeachie)の『ティーチング・ティップス』(1978年)は画期的であった。しかし、この時代のティップスは、「より良い講義者」になることが前提であって、学生とのアイコンタクトの取り方とか、机間巡視とか、顔の表情を豊かにするとか、声に変化を持たせるなど、より良い講義者になるために過ぎなかった。すべてのことが、1991年に一転した。この年にアクティブラーニングという本が刊行された(注:これは、ジム・アイソン共著『アクティブラーニング~教室の興奮を創る(英文)(Active Learning:Creating Excitement in the Classroom)』(1991年)を指す)。この本の特徴は、教員だけでなく、学生のすること、学生が振り返って考えことに焦点が当てられたことである。すなわち、講義ではなくて、学生をアクティブラーナーにすることであった。この本を契機に、教授法に関する書籍が爆発的に刊行されるようになった。たとえば、1990年以降、新しいアイデアとして、「意義ある学習分類」、「深い学び」、「批判的思考」など、学生の学びに焦点が当てられた。また、学習経験にもとづいたコースデザインでは、統合的コースデザインや教授戦略としてのTBLやPBLが注目された。また、学びがどのように起こるかの書物も刊行された。優れたアクティブラーニングに関する書物も出た。学生の学習に関する「アセスメント」では、Educative Assessmentという表現が使われた。これは「教育的評価」のことで、学生の立場に立ったアセスメントのことである。すなわち、学生が何を学んだかを評価するのではなくて、学生の学習過程をアセスメントして、次につなげる教育的評価である。
パラダイム転換~教育から学習へ
「学習パラダイム」に関する論文が1995年に出版された。はじめてこの論文を読んだときは、パラダイム転換が意義あることなのかよく理解できなかった。なぜなら、ティーチングもラーニングも共に重要で、コインの表裏と同じではないかと考えていたからである。しかし、何度か読み返すうちに、これは新しい動向で、ジョン・タグ博士の主張は正しいと理解できるようになった。これまでの「教育パラダイム」は、授業の最後に教員の立場から授業を振り返り、うまく行ったか、あるいは普通だったかを判断した。その判断基準は、次の二つの質問をすることであった。一つ目は、教えたコースについて十分な知識を持っていたか、二つ目は、教員の知識を学生に効果的に伝えられたかであった。この二つの質問に対して「イエス」と答えることができたならば、授業は成功であったと判断できた。しかし、「学習パラダイム」では、この二つの質問だけでは不十分である。二つの質問に加えて、この授業で学生たちがどのようにうまく学ぶことができたか、学生が学べたのは教員がいたからなのかということである。教員がうまく教えないにも関わらず、学生が学ぶこともある。これが、パラダイム転換の意義である。すなわち、学生が自ら学ぶというもので、このような考えはこれまでの学びの概念を根底から覆した。教えることが重要ではなくなった。最も重要なことは学生の学びの質と量である。これが「学習パラダイム」の意味である。教員が教えるのは手段に過ぎない。教員が教えるときに心がけることは、学びの「質」を高めることである。
さらに重要なことは、「継続的な改善」という考えである。これは日本企業の有名な活動目標である。アメリカはこの考えを日本から学んだ。教員の最終目標は、「良い教員になることではない」と聞いたら、ショックを受けるかも知れない。なぜなら、誰しも「良い教員」になりたいと思っているからである。しかし、教員の最終目標は、「良い教員ではなく、数年先に、今日よりも、より良い教員になる」ことである。すなわち、「継続的な改善」が求められる。もし、学生の学びに大きな改善を望むならば、教員のティーチングにも大きな改善が求められる。したがって、教員は常に新しいティーチングを継続的に学ぶ必要がある。これが結論である。したがって、アメリカや日本のみならず、世界の大学には強力なFDプログラムが必要である。
おわりに
21世紀の複雑な社会においては高等教育が不可欠である。そこでは、「質の高い」教育が必要になる。他者とのコミュニケーションや継続的な学びの手法を取り入れる必要がある。統合という考え方が重要になる。すなわち、大学だけの学びだけではなく、社会とのつながりという視点が必要になる。そのためには、新しいことを学ぶための「学び方を学ぶ」必要である。教員はカリキュラムを作り、授業をするが、学生が拒んだらうまくいかない。両者がイノベーションを求めて変革しなければならない。したがって、日本には強力な教員開発のためのFDプログラムと、強力な学生開発のためのSDプログラムが必要である、と結んだ。