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アルカディア学報

No.629

混乱にみち、根拠なき最近の高等教育政策

研究員 羽田貴史(広島大学名誉教授・東北大学名誉教授)

「文部科学省が大学改革へ向けて提示する計画あるいは施策は、昨今、唐突とも思えるほど急激に進んでおり、大学関係者も戸惑いを隠せないというのも事実である」。これはある私立大学団体が2013年に公表した報告書の一文である。この種の文書にこうしたコメントが書かれることは珍しいが、5年後の現在、多くの大学関係者が痛感するところではないだろうか。2010年代の高等教育政策は、そういわれても仕方がないほど、矢継ぎ早に新たな施策が打ち出され、それは必ずしも現状分析や評価に基づくものではない。場合によっては、高等教育のあるべき姿を逸脱するものさえある。

常識はずれの政策提言

まず、高等教育の在り方から見て常道でない政策が細部にわたって閣議決定され、重みがあるので、修正されない、異論が出ずに突っ走ってしまうのが現在の政策形成の特徴である。典型例は、高等教育へのアクセスの平等を図るための授業料減免措置や給付型奨学金の創設である。これは、遅きに失したともいえ、必要な政策である。だが、対象要件を学生ではなく、外部者の経営参加や実務的教育を行うなどの条件を満たした大学に限定するのは、信じがたい。それは、実質的に大学の適切さの評価を行政官庁が行うもので、大学の自立性を侵食し、さらに、学生が進学したい大学を行政府の判断で抑制することになる。奨学金は間接的な機関への補助でもあるが、その基準は公平に専門的識見で決めるのが当たり前で、このようなことを行政が行いうるという根拠はない。この政策も、人生百年時代構想会議で提言され(委員には学生起業家はいるが、高等教育とは何かについて識見のある委員は皆無である)、閣議決定でオーソライズされるという手順を取った。

エビデンス無き政策提言

政策提言の妥当性を示す根拠やデータが明確でなく、一貫性のないものが多い。たとえば、民主党政権時代の「大学改革実行プラン」(2012年6月)には、「アンブレラ方式(1法人複数大学)」が書き込まれ、その後、さまざまなプランに登場していた。昨年4月25日の経済財政諮問会議に、伊藤元重ほか民間議員の共同文書で、「設置者(国公私立)の枠を超えた経営統合や再編が可能となる枠組みを整備すべき(1大学1法人制度の見直し(国立大学法人)、設置基準の改正等を通じた、同一分野の単科大学間や同一地域内の大学間の連携・統合等)」が提案され、「経済財政運営と改革の基本方針2018」に採用された。公私立大学は1法人複数大学制度だから一概に否定はできない。しかし、国立大学法人制度発足時には、「経営と教学の統合」を呪文のごとく強調したではないか。その評価も一切なく、法人複数大学制度(当然のことながら、複数学長になるので経営と教学は一体とならない)を提言するのはどういうことだろうか。統合については、もっと論拠が貧弱であり、1大学あたり学生数の国別データを並べ、日本は大学の規模が小さいからスケールメリットが働かないという。高等教育機関におけるスケールメリットの研究では、それが存在するかどうかも明確ではなく、小さい規模の大学があることは地域に根差す上で大きな意味があるものだ。そうした具体的な事実も調べた形跡もない。KPIなどエビデンスやデータ重視が方々で主張されながら、政策を決める側には無用なようだ。

官邸主導の影の部分

これは、高等教育を所掌する文部科学省や関係審議会ではなく、内閣・官邸(内閣府)主導の政策形成が常態化し、イノベーション政策の一部と位置づけられ、人格形成や市民性の育成、文化の再生産など多様な機能が軽視されてきたことの一面である。小泉内閣時にも経済財政諮問会議が政策全般に大きな力を発揮したが、同会議は、内閣府設置法に根拠を置く。しかし、第2次安倍内閣では、閣議決定(日本経済再生本部、教育再生実行会議)、首相決裁(人生百年時代構想会議)、日本経済再生本部が設置(産業競争力会議、未来投資会議)のように、行政権で設置された組織が重要な政策の根幹を定め、閣議決定でオーソライズし、その後、所管大臣が方針化するという流れになっている。内閣は行政組織の最高機関であり、内閣総理大臣は、閣議決定方針について行政各部の指揮監督権を有するが、国務大臣は行政事務の分担管理権を持ち、従属するものではない。分担管理に影響を及ぼすような政策形成が妥当であろうか。議院内閣制は、議会の多数派が内閣を組織し、しかも総理・総裁が同一人物だから、総理大臣の権限行使には議会のチエック機能が働きにくい(与党議員の良識にもよるが)。いいかえれば、今の日本は、大統領制以上に政治的独裁になりやすく、多様な利害や意見を反映した政策形成が行われない。近代国家の統治は、法治主義が原則であり、閣議決定を経れば何でも決定できる現状は異様である。

中教審将来構想部会は?

昨年3月、文部科学大臣は中教審に「我が国の高等教育に関する将来構想について」諮問した。諮問内容に、大学の連携・統合も含まれており、高等教育行政固有の立場から、どのような答申になるかが注目される。
もっとも中教審もエビデンスに忠実とは言えず、2014年のガバナンス改革に関する審議まとめでは、委員の3人が大学運営には素人と弁明しながら学長への集権化を主張し、元大学総長へのヒアリングを秘密会で開催し、権限集中化を決めてしまった過去がある。比較衝量も現状分析も不十分なまま決め打ちの政策を打ち出すのは、官邸主導の専売特許ではない。6月28日、「中間まとめ」が公表されたが、官邸主導の高等教育政策を追認したところもあれば、距離をおいているところもある。1法人複数大学制度などは今後の検討課題にあがっているが、統合促進については慎重であり、経団連「今後のわが国の大学改革のあり方に関する提言」や、自民党教育再生実行本部「第十次提言」が主張する大学統合とは今のところ一線を画する(それにしても自民党提言の主査・元文科大臣が、新聞のインタビューで、主査を引き受けるにあたって大学の歴史の本を3冊半読んだと自慢しているのは、大学に対しては専門性の育成を重視しながら、高等教育の専門的知識を欠いても政策立案できるという何かのジョークか)。最終結論がどうなるかファジーだが、高等教育行政の専門性がどこまであるのかを示す良い機会だろう。

高等教育研究の役割は

このストーリーに高等教育研究者はどう関連するのか。ここ数年間の政策について、高等教育研究者の批判的論説をほとんど見ない。官邸主導の政策を書いた当事者を学会の記念行事に呼ぶことさえあった。相互に論議するのならよいのだが、行政や政治家との距離の近さを誇り、媚を売っているとさえ見える時もある。高等教育研究者の一部に、高等教育のあるべき姿を論じることを規範主義として退け、政策に役立つ発見をすることが研究の使命であり、政策を政府と同義に見ている研究者も多いのではないか。これほど、政治と科学の関係についての無知さを示す事例も少ない。いかなる知識も思考も、そして政策も、思想の自由市場と現実を通じて鍛えられ、検証を通じて真正のものとして共有財産になる。政策形成のプロセスにおいて事前に検証しうるのは利害から自立した専門家しかいない。それが、批判的思考を提供する役割を果たさないなら、その社会は自由に立脚した民主主義社会とは言えない。高等教育政策のあり方とともに、高等教育研究と研究者のあり方も問われているのだ。特に審議会に関与している研究者には。