アルカディア学報
高等教育の無償化に対する疑問
―英国の大学授業料・ローン制度から学ぶ教訓― ―上―
はじめに:無償化論議には大学政策の視点が不足
本稿は、高等教育の無償化について、憲法改正問題という政治的視点から論じるものではない。また、学生や親の教育費負担の軽減策の観点のみから論じるものでもない。高等教育に必要な財源をどこから(国費・公費、学生・保護者、卒業者等)、どのような割合で調達するのかという高等教育への資金供給(ファンディング)の在り方、国費投入と関連する国による大学に対する規制の在り方等について、総合的に論じるものである。
この問題は、高等教育の機会均等や(非進学者を含む)負担の公平性の観点はもとより、我が国の大学等の教育・研究の水準向上、高等教育の規模(学生数、進学率等)の維持・拡大又は縮小、大学等への資金投入の効率・効果の確保等の視点も加え、日本の高等教育に関する将来ビジョンとして総合的に論じるべきイシューである。これまでの無償化論議は、このような大学政策トータルの視点を欠いている。
その際、参考にすべき国の一つは、イングランド(英国の人口の8割超を占める。以下、単に英国という)である。英国の大学は、1960年代に無償化され、1990年代末に授業料が再導入されるまで無償だったが、今日では世界有数の高額授業料となっている。日本での議論と逆方向をたどった制度変更が何をもたらしたか。本稿は、日本で十分にその真価が認識されていない、英国における授業料等大学財政制度とその成果を紹介した上で、日本にとっての教訓を無償化に関する誤解として考察するものである。
1.英国では授業料導入以降、進学率・格差・大学財政が改善
英国の制度の成果について、結論を述べよう。Murphy, Scott-Clayton & Wyness(2018)の研究によれば、驚くべきことに、英国では、大学進学率、所得階層間の進学格差、教育の質を支える学生1人当たり大学予算、いずれの指標を取っても、授業料導入以降に改善し、度重なる授業料値上げを経ても改善を続けている。
(1)大学進学率
中等教育修了後直ちに進学した場合の年齢である19歳・20歳の進学率は、授業料導入等改革の直前の1997年の16%から2015年には35%へと2倍以上に上昇した。それより上の年齢層の進学率もおよそ倍増した。
(2)所得階層間の進学格差
所得階層下位20%の進学率は、1997年には11%であったが、2014年には19%へと上昇した。授業料導入以前の1980年代から90年代終盤にかけては、大学進学率が急速に上昇すると同時に所得階層間の進学格差が拡大した時代であったのとは対照的に、1998年の授業料導入後、格差拡大は少なくとも止まったか、あるいは僅かに縮小した。
(3)学生1人当たり大学予算
1973年には14,000ポンド近くまで達していた学生1人当たり大学予算は、その後低下し、とりわけ学生数が急増した1980年代及び90年代に急落し、1999年には6,500ポンド強まで落ち込んでいた。授業料導入以降、学生1人当たり大学予算は、回復を続け、2013年には9,700ポンド(1999年の約1.5倍)となった(いずれの額も2015年基準で物価調整後の数値)。
2.英国の授業料・ローン制度:在学生には無償化、卒業者(稼得者)に有償化
(1)英国の制度の概要と長所
英国は、どのような制度を採ったのか。1998年の授業料導入(厳密には再導入。1962年教育法で廃止されるまでは授業料が存在した)以来の制度の変遷は割愛し、現行の授業料・ローン制度を見てみよう。
現行制度では、年額9,250ポンドの授業料は、公的なローン制度(日本風に言えば貸与型奨学金であるが、本稿ではローンと呼ぶ)で賄われ、在学中に学生が支払う必要はない。学生ローン・カンパニーと呼ばれる法人が大学に授業料相当分を支払い、学生は卒業後に有利子ローンを返済する。徴税当局が雇用主から源泉徴収するため、返済は面倒でなく、政府にとっても無駄なコストが掛からない。
卒業者の返済は、21,000ポンド超の年収がある場合に限られ、それを超える所得額に応じて返済していくが、30年経過すると全額返済し終えていなくとも債務は帳消しとなる。また、授業料ローン制度は、全ての学生を対象とする制度であるため、裕福な学生が財政的に貢献することにより、経済的に恵まれない学生に寛大な条件設定を可能にするとともに、制度破綻のリスクを低くしている。
授業料ローンに加えて、生活費ローンとして、最貧困層家庭の学生は年額8,500ポンドまで借りることができる(授業料ローンと同様の方法で返済)。これに対し、授業料導入前(1997年)は、給付型奨学金を含め5,000ポンド弱しか提供されなかった。生活費ローンが年々増額されてきたため、学生が在学中に手にした資金は大幅に増加したのである(Murphy, Scott-Clayton & Wyness 2018)。
(2)成果をもたらした要因
英国の制度の成功をもたらした要因としては、以上の通り、授業料といっても卒業後かつ十分な収入がある場合に返済するローンであり、在学中に授業料を支払う必要がない上に、授業料ローンとは別の生活費ローンが年々増額され、手厚いものとなったことから、学生の在学中の手持ち資金が大幅に増加したことが挙げられる。
この点において、英国における大学授業料・ローン政策を単純に「有償化」と表現するのはミスリーディングな面がある。逆説的な言い方をすれば、在学中に限っては生活費を含む実質的な「無償化」に近づいたとも言える。また、卒業後の返済制度も、所得連動型である上に、一定年数(現行制度では30年)で債務が帳消しになる寛大な制度であることが、負債への不安を和らげていることも重要な要因である。
ローンの借手(学生)にとっての寛大さは、国の財政負担による帳消し分の負担、(低所得者への)返済猶予、利子補給等を意味する。このような公財政支出による補填のローン総額に対する比率については、30%から50%まで様々な推計がある(小林 2015:29-40)。相当の公財政負担があるとはいえ、100%公財政負担する場合と比べれば、国家財政にとって大きな負担軽減になることは言うまでもない。
また、高等教育によって裨益し相応の所得を得ている大卒者に対し、所得に見合う財政的貢献を求めることは、進学しなかった者の租税負担を含む負担の公平の観点から、政策理念的にも正当化できる。英国や日本を含む全世界で(程度の差はあれ)ほぼ普遍的に見られる学歴による所得格差、最終学歴が高等教育の者と中等教育どまりの者との生涯賃金の差にかんがみれば、さらには前者の親が後者の親よりも平均的には高所得であることを考慮すれば、高等教育が無償である(授業料負担を求めない)ことは不公正とすら言える。
(3)無償時代の問題点1:大衆の税負担によるエリート教育(低い進学率、階級間格差)
長年にわたり英国の高等教育進学率は低く、大学はエリート教育機関とみなされていたが、1992年継続・高等教育法によって1993年からポリテクニク等が大学に昇格するとともに、高等教育進学者数の急増が始まった。その後の授業料の導入は、進学率の上昇傾向に変化をもたらさなかった。しかし、全体としての進学率上昇にもかかわらず、社会階級間の進学格差は、20世紀の間は驚くほど安定的に持続していた。このことは、結果として、大衆の税負担によってエリート教育が維持されてきた歴史的事実を意味する。
(4)無償時代の問題点2:低下の一途をたどった学生1人当たり大学予算
Murphy, Scott-Clayton & Wyness(2018)によると、学生一人当たり大学予算は、1960年代から1970年代初めにかけて上昇し、1973年には14,000ポンド(2015年基準で物価調整後の数値。以下、同じ。)近くまで達していた。1970年代から80年代前半にかけては高下しながらも比較的高い状態が続いたが、1980年代半ばからは一貫して低下を続け、とりわけ学生数が急増した90年代に急落し、1999年には6,500ポンド強まで落ち込んだ。これで底を打ったのは、授業料導入による。それ以降は上昇を続け、2013年には9,700ポンド(1999年の約1.5倍)にまで回復したことは前述した通りである。
この歴史的経緯は、少なくとも英国では、無償の高等教育は(逆説的だが)エリート教育にとどまっていた時代だからこそ財政的に持続可能であったことを示している。英国政府は、高等教育のマス化・ユニバーサル化のペースに対応した予算措置を行わなかったため、教育の質と関連すると考えられる学生一人当たり大学予算の継続的低下を招き、授業料の導入及び値上げという制度改革によって大学財政が好転したのである。
このような歴史的教訓は、英国だけの特殊事情ではない。たとえば、紆余曲折の後に高等教育無償へ戻ったドイツは、学生1人当たり高等教育費の増が低い水準にとどまった。OECD等のデータに基づくドイツとの国際比較研究(Hillman 2015:19)によると、2000年から2011年の間に、英国では高等教育支出が98%増加し、この間の学生数の増加が18%だったので、学生1人当たり高等教育費は六七%増となったのに対し、同期間のドイツでは、学生数が30%増であったのに、高等教育支出が40%増にとどまったため、学生1人当たり高等教育費の増は英国よりもはるかに低い水準となった(為替調整後の絶対額も英国の方が高額になっている)という。また、フランスの大学は、学生納付金がほぼ皆無の準無償制であるが、この制度に対しては、大学の収入が少ないことから、教育プログラムや学生支援が量的・質的に不足し、研究成果も低いとの批判がある(大場 2018:36)。
(つづく)