アルカディア学報
まじめ化する大学生と学生の「生徒化」・大学の「学校化」
1990年代中頃から、大学生がまじめ化しているとの声をよく聞くようになった。事実、この点は、データからも確かめられる。
たとえば、生協調査(全国大学生活協同組合連合会『学生の消費生活に関する実態調査』)では、大学生が学生生活のなかで、どのような活動にもっとも重点をおいているのかを、継続的に調査している。
それをもとにすれば、勉学重視派の比率は、1995年まで、基本的には減少しつづけていた。それが、この年を転機に急増傾向をみせている。その後、就職状況の好転を受け、2007年には一旦、急激な減少をみせる。しかし、リーマン・ショックを契機とする世界同時不況が押し寄せる08年以降には、勉学重視派の比率はふたたび増加に転じ、13年には約3割にまで達し、いまやキャンパス文化の最大の主流派にさえなっているのである。
不況にともない就職難が進めば、少しでも就職活動を有利に運ぼうとする意識が強まり、成績を上げるために勉強志向が高まる。それゆえ、勉強志向の増大・縮小は、景気・就職動向の影響を受けることは、以上の動向をみれば明らかである。
しかし、4年制大学卒業生の就職者率・内定率が同じ程度の年どうしを比較すると、1997年以前の時期に比べ、98年以後の時期の勉強重視派の比率は、ほぼ例外なく5~10%ポイント高くなっている。こうしてみると、90年代後半以降には、雇用状況を超えて、勉強志向を高める何らかの要因が存在している可能性が示唆される。
その主要な要因の一つとして、最近、注目を集めるようになったのが、大学生の「生徒化」現象である。この問題に最初に焦点を当てた、伊藤茂樹によれば、大学生の「生徒化」とは、つぎのような傾向を指す(「大学生は『生徒』なのか―大衆教育社会における高等教育の対象―」、『駒沢大学教育学研究論集』第15号、1999年、85―92頁)。
「自律・成熟した一人の個人としての自己イメージが希薄である」。それゆえ、「大学が与える教育サービスに対して受動的に充足し、他のものを積極的」に求めない。だから、「大学や授業へのコミットメントは、深くはないが、量的には大きい」、つまり、「『生徒役割』を形式的、受動的に遂行する」一貫として、すなわち一種の義務としての授業出席率は高い。
事実、たとえば1997~2007年の10年間にわたる継続的調査の結果をもとにして、武内清は、近年のキャンパス文化の動向に関して、以下のように指摘する(『学生文化・生徒文化の社会学』ハーベスト社、2014年、53―54頁)。とくにここ十数年間にどの大学でも、授業出席率はたしかに高まっている。その反面、「高校と同じように、授業では出席がとられ、教師の指示にしたがって将来に役立つ内容が教えられるべき、と感じる」、「大学教師に従順な大学生が増えている」。
しかし、その一方で、生協調査をもとにすれば、読書時間は減少することこそあれ、増加は認められない。つまり、高校時代の延長として、受け身の姿勢で、授業にはまじめに出席するものの、読書などをとおして主体的に学習することは少なくなってきているといえる。
だとすれば、近年になって、かつての「勉強文化」への回帰がみられるというよりは、正確にいえば、「生徒」的な学生による「まじめ・勉強志向」が広まっている可能性がある。
そこで、武内 清を代表として、2013年に13大学の学生を対象に行ったアンケート調査を利用し、大学生の生徒化意識と「まじめ・勉強志向」との関係を調べてみた。
その結果、つぎのことが明らかになった。生徒化意識の強い学生ほど、勉強志向が強く、授業出席率も高くなる。のみならず、授業の予復習時間も長い。しかし、「読書時間」は、短い傾向がみられる。
こうしてみると、主体的な「勉強志向」というよりは、「生徒化」した学生たちによる、受動的な「まじめ・勉強志向」によって、最近の勉学重視傾向がもたらされていることは明らかである。
それでは、大学生の「生徒化」は、どのような社会的背景が影響して、もたらされたのだろうか。この点について、竹内洋は、つぎのように指摘する(『大衆の幻像』中央公論社2014年、232―257頁)。
「いまの大学生は、高校生とみるとわかりやすい。授業にほぼ皆出席。先生、先生と寄ってくる。わかりやすい授業をもとめたがる」。「少子化と定員割れの急増とそれへの恐怖から、お客様(学生さま)大学になっているところもある」。「過保護状態である」。「いまや半数以上が大学に進学する時代」となったため、つまり大学がユニバーサル化したため、「高校と大学のアーティキュレーション(接合)が大切とされ、初年次教育などがさかんになった」。そのような動向を含めて、「大学の顧客サービス業化」とでも呼べるような状況が進行した。つまり、大学は、「学生というお客様へのサービス産業になった」。
具体的にいえば、「入学時の懇切丁寧なガイダンスやオリエンテーションから始まり、クラス担任による公私にわたる指導、研修旅行、カウンセリング、各種資格の取得のための指導、就職指導など、学生の現在と未来にわたる生活の様々な側面に関してきめ細かくケアすることがよりよい教育サービスの提供であるとされ」、『生徒指導』『生活指導』のごとく、学業のみならず学生の生活全般に大学は介入し、指導するようになって」きた(伊藤、前掲論文、103―106頁)。
この現象は、大学の「(初中等)学校化」と名づけることができる。ここではこの現象の善悪を、問題としたいのではない。実態として、そういった傾向が進展していることを指摘したいだけである。
大学生が「生徒化」した要因としては、学生文化と生徒文化のボーダレス化現象も考えられる。近年では、デートやアルバイトのみならず、飲酒や喫煙、女子学生の化粧などに代表される、かつての大学生文化が、高校までの生徒文化に大々的に浸潤を始めた。それらは、大学に入るまでの禁欲的試練に打ち勝ち、「大人」の入り口に達した学生だけが晴れて謳歌できる特権ではなく、単なる高校生活の延長線上に、位置づけられる行為にすぎなくなったのである。
こういった要因などにより、大学の「学校化」現象にかかわらず、最近の若者気質の変化にともない、大学生の生徒化が進んだ可能性もある。もちろん、学生が「生徒化」すれば、それに対応するため、大学は「学校化」せざるをえない。
しかし、逆に、大学が「学校化」すれば、それに適応・依存する形で、心性的にも学生の「生徒化」は増強されていくことにもなる。
一人前の大人になるために、精神的自立を身につけさせる。このような青年期の発達課題の達成にむけた訓練の場としての役割をも、大学はこれまで、課外活動の場を含めて担ってきた。だとすれば、学生の「生徒化」は、青年の自立を先のばしする方向への動きとみなせる。そして、大学の「学校化」は、それに手を貸しているともみなせる。
この点に関する危惧に満ちた、竹内の警句を最後に引用して、この論考を閉じることにしたい。「これだけ大学教育が手取り足取りでは、企業などに就職して“人材”となりうるだろうか。『指示待ち社員』どころか、『お客様社員』では困らないだろうか」(前掲書、232―233頁)。