アルカディア学報
評価問題をめぐって―第8回公開研究会の議論から
第8回の公開研究会は、「大学評価の国際的展望と日本の私学評価のあり方」をテーマに、米澤彰純氏と喜多村和之氏を講師に迎え、11月5日の夕刻に多くの熱心な参加者を集めて開催された。ここではその概要をお伝えしたい。
まず、喜多村氏(私学高等教育研究所主幹、早稲田大学客員教授)が、冒頭に立って今回の研究テーマに関しての趣旨説明を行った。現代の日本の大学がおかれた状況を考えれば、評価の問題を避けて通ることはできないと切り出した。すでに国立大学を対象とした大学評価・学位授与機構が活動を開始しているのである。
ところが私立大学にとっては、大学基準協会などが存在するものの、国立大学にとっての大学評価・学位授与機構に該当するような明確な第三者評価機関がまだ存在しない。しかし評価の問題を先延ばし続ければ、やがて合意のないまま第三者評価が介入することになるかも知れない。それもひとつの評価ではあるが、そのような事態を招かないためにも、私高研はその発足時からこの問題に一定の方針を出すことを私立大学協会から求められていると語り、来年3月までには何らかの方策を提言したいとして、この研究の緊急性と必要性を強調した。
幸いなことに、このテーマに関するアウトラインは、本紙10月10日号のアルカディア学報に喜多村氏が「自己評価と第三者評価-私大はいずれの路線をとるのか」を寄稿し、翌週17日号には米澤氏(広島大学高等教育研究開発センター助教授、大学評価・学位授与機構助教授併任)が「社会的文脈の重要性-評価システムの構築にあたって」を掲載しているので、今回の公開研究会での両氏の基本的な論点は前もって明らかにされていたことになる。本稿と合わせてこれらに眼を通していただければ有り難い。
ところでアルカディア学報の内容と今回の公開研究会の内容がこのように重なったのは、同時多発テロ事件の影響による。10月中旬から私高研の研究員は、ニューイングランド大学基準協会のアクレディテーション更新のための大学視察チームに参加して、その方法や内容を学び、それを公開研究会で詳しく報告し、その後に私立大学の評価をどう構築すべきかを皆で一緒に考えるというのが手筈であった。この視察は決められた時期を外しては実施できない仕組みであるため、予定が根本から狂ってしまったのである。
さて、米澤氏は「欧米諸国の大学評価システムと日本的大学評価-国立大学を中心として」と題して問題提起を行った。冒頭で大学評価は必要である、ただし、大学人が主体的に取り組まなければ意味がない、と自身の立場を明確に述べた。次いで大学評価に関して先進諸国を概観し、INQAAHE(International Network for Quality Assurance Agencies in Higher Education、http://www.inqaahe.nl/)という機関が存在することを披露した。大学評価団体の国際的組織であり、インターネットで世界の情報も得られるという。
そこでOECD諸国の大学評価を、アメリカ型、ヨーロッパ型に分類し、さらにヨーロッパ型がイギリス型、フランス型、オランダ型に分けることがきるとした。アメリカの大学評価システムは、アクレディテーション団体が実施し、自己評価とピア・レビューの組み合わせが基本であり、評価は財政と直接にはリンクしないなどの特徴を説明し、ヨーロッパ諸国における共通点として国家レベルの評価主体、自己評価の活用、ピア・レビューの実施、結果の公表とを挙げて世界の動向を概観した。
ヨーロッパの大学評価システムは、1980年代から90年代はじめにかけて広まったことを説明し、そこに大学の大衆化問題がひそんでいたことを明かした。イギリスにおける分野別の評価と財政配分、フランスにおける全学単位の評価、数値より記述に重点をおく評価、オランダにおける質の改善に重点をおく評価などに説明を加え、わけてもオランダにおける評価が北欧諸国やドイツ語圏の大学評価に影響を与えているという。このオランダの方法は、大学連合体が自発的で集団的な自己評価を行い、政府はこれを尊重し政府の視学官がこの評価を点検するという方法である。筆者が無理に深読みすれば、米澤氏のこの問題に関する決着点もこのあたりにありそうである。
さらに日本の国立大学に話題を転じ、自らが属する大学評価・学位授与機構の事業内容を紹介し、当面の間、国立大学を評価対象とするが、それだけで手一杯であるとの現実を披瀝した。また特に『あたらしい「国立大学法人」像について(中間報告)』にもられた研究を評価する項目などに言及しつつ、政府の運営費交付金との連動を示唆した。
最後に、私立大学への示唆あるいは適応について考え、外部からの評価は、決して「良い」自己評価を超えるものでないこと、大学は複雑であり、これをやさしく評価として表現することの難しいこと、大学評価における勝ち組と負け組をどうするか、評価は大学の集団的自治の抱える矛盾を顕在化させる道具になるかも知れない、などの諸点を挙げて、私学関係者がどう主体的に取り組むかが最大の問題であると指摘した。
喜多村氏は「大学評価の国際比較と日本の私大評価のあり方」と題して米澤氏の論点をカバーしながら持論を展開した。初めに、私学の特性に配慮した評価システムがないものかと自問し、評価の目的、種類、方式、基準など原理的な問題を考察した後、米澤氏と同様にイギリス、フランス、オランダ、アメリカ、韓国そして日本の大学評価システムを概観し、大学評価と資源配分が結びついているシステムと、そうでないシステムとに二分できると問題を整理して論を進めた。
そこで私学における評価の課題を提示して、遠山プランにおける問題点を指摘し、評価と資源配分が結びつくと危険なことになるのではないかと危惧を表明した。アメリカの事例を挙げ、特にセルフ・スタディーの重要性について強調し、日本におけるセルフ・スタディがあまりにも受け身的であり、文部科学省対策となっているものも多いと批判した。
私学評価は国立大学の評価法に大きく依存することなく、私学にプラスになる評価であると同時に他者の評価にも耐え得るものであるべきだと述べた。セルフ・スタディーに立脚するアクレディテーション方式は、基本原理として他者排除を含んでいる。お上から独立して形成されたのが私学のセクターである。アクレディテーションの基礎の上に、私学の評価を独自に考えればよいのではないか。これが喜多村氏の研究と経験から導かれた方法であり、大方のフロア出席者の同意を集めたように思われた。
2人の報告の後、小出秀文氏(日本私立大学協会事務局長)の司会で熱心な討論が続けられて、長時間にわたる公開研究会もほんの一時と感じるほどの有益で得るところの大きい研究会となった。フロアからは、大学評価・学位授与機構と遠山プランとの関連性、市場評価をどう思うのか、学生の授業評価の問題、そもそも評価と資源配分は不可分の関係ではないのか、研究活動の評価をどうするか、などの質問が提出された。
大学評価の問題は、米澤氏が「社会的文脈」と表現したように、その大学がよって立つ社会と無縁ではあり得ない。日本の社会における日本の私学という自明のことを、大きな視野をもって、換言すれば国際的にも十分に耐え得る視点から、評価の方法を開発すべきであろうと思う。
こうしてなごやかななかにも重い課題を抱えて公開研究会は散会となったが、次回もまた韓国などの事例を折り込んで、同じような課題の公開研究会が開かれる予定という。私学にとっての大学評価への道が、次回にはかなり見えてくることを期待したい。