アルカディア学報
大衆のための大学政策を考える
高等教育に対する公的支出を増やす政策は、大学関係者、とりわけ私学関係者の悲願だが、世間の目には厳しいものがある。国家予算を要求する前に、質の悪い大学を改革するのが先だろうと脅され、少子高齢化に伴う年金・医療・介護の財政負担増を考えれば、希少な税金を高等教育に振り向けるゆとりはないとそっけない。
大衆のための大学教育を充実させる公共投資が経済と社会を強くする。それが教育経済学を手掛けてきた私の結論だし、年金・医療などの公的支出を減らしてでも大学への公共投資を優先するのが望ましい、と提案してきた。その延長上で、大学授業料のタダ論も提起したが、とんでもない暴論のようで、世間の目に触れられることもない。
大学の費用を誰が負担すべきか。長い論争のある国際的なテーマだが、わが国では深刻な政策イシューにならない。なぜかと不思議に思うが、理由はきわめて簡単だ。国民の世論が深刻に対立していないからである。「政府が負担すべきだ」という政治勢力と「家族ないし本人が負担すべきだ」という政治勢力が拮抗していれば、メディアの論争も活発になるだろう。しかし、国民世論も、そしてメディア関係者の気分も「家族責任主義」による家計負担論者が圧倒的に多い。それが日本社会の大きな特質である。財務省だけが大学への公的支出を渋っているわけではないのだ。
その事実をあらためて確認させられたのは、「教育と社会保障に関する意識調査」を手掛けた結果だった。教育・雇用・年金・医療という人生の生涯政策に対する社会の関心と税の負担について多角的な調査を試みた(科学研究費報告書『教育費政策の社会学』2012年。結果の一部については、拙稿「学力・政策・責任」『教育社会学研究』第90集を参照)。調査結果の特徴を簡潔に記せば、次の二つに集約される。一つは、シルバーポリティクス。生涯政策に対する社会的関心の強さや税負担の肯定度(増税してでも積極的に問題解決すべきだとする程度)にプラスの影響を与えるのは、所得や学歴といった社会階層の要因ではない。年齢である。階層に関係なく、選挙投票率の高い高齢者の政治的関心が全体の世論をリードしている。この年代間格差をシルバーポリティクスという。政治的関心の強いシルバーが年金・医療の社会保障政策を最優先させる力学の源泉である。
いま一つは、「教育劣位社会」の日本。生涯政策の公的支出割合は国によって大きく異なるが、その社会的選好の決め手は、どの政策を優先するかという国民の政治的判断にある。そこで、いくつかの政策をペアにして一対比較法による調査を行った。二つのペアを比較すれば、「あなたはどちらの政策を優先しますか」という質問である。その結果によれば、教育政策の優先順位は社会保障政策と比べて顕著に低い。教育分野の政策を義務教育・高校・大学に分ければ、大学に財政資源を投入する順位は圧倒的に低い。大学政策は、「教育劣位社会」にあってさらに劣位の政策である。
具体的な事例を紹介しよう。「大学の教育費は、社会が負担すべきだと思いますか、あるいは個人もしくは家族が負担すべきだと思いますか」という質問項目である。東京都民の調査結果によると「どちらかといえば」を含めると「個人もしくは家族が負担すべきだ」を選択した人が80%を占める。しかも、この比率は、家計所得や学歴といった社会階層に関係がない。貧しい所得階層でも、大卒でない階層でも、同じ「家族責任主義者」なのである。
最近のベネッセと朝日新聞社による『学校教育に対する保護者の意識調査』が、学校の授業料を「どの程度、税金で負担すべきだと思いますか」という調査項目を設けている。私立大学の授業料についてみると、ここでも7割ほどの保護者が「個人が負担すべきだ」と答えている。その一方で、国公立大学の授業料については、逆に六割ほどが税金で負担すべきだという。「国公立大学に入れなければ、自分のお金で私立に行けばいい」というそっけない態度で、現状の公私格差を追認的に肯定して、冷淡だ。
日本の常識では、「私立大学は、個人の利益のためにある教育機関だから、その教育費は個人が負担すべきだ」ということになっている。はたしてこの常識は、本当に正しく、適切な判断なのだろうか。私が教育経済学を手掛けた時の最初の疑問がこの問いだった。古くからの問いを最新のデータによって確認する論文を執筆した(「費用負担のミステリー:不可解ないくつかの事柄」、『大学とコスト』岩波書店、2013年5月)。
そこでは、卒業してから65歳までの学歴別生涯所得についての計算例を紹介している。私立大学卒業者は、高卒者と比べて、生涯にわたる可処分所得が7122万円増加する。4年間の授業料が480万円だとすると費用の4.9倍の私的利益をもたらす投資になる。私的利益があるから授業料を個人負担するのが合理的だといえそうだ。しかし、個人の可処分所得だけの便益を考えるのはおかしい。累進課税によって所得の高い大卒は高卒者よりも高い税金を納めている。生涯にわたる政府の学生一人あたり税収入増を推計すると1258万円になる。私立大学に対する政府の補助金は、1人あたりになおせば4年間で60万円ほどだ。この60万円の投資が10.1倍(1258万円)になって回収されるのが、私学助成の財政収益率である。下世話に表現すれば、卒業生本人が儲かるより以上に政府が儲かっている。だとすれば、私学助成を増やし、授業料を安くするのが道理である。ところが、この2、30年の政策は真逆に動いてきた。
この倍率計算は、投資収益率の厳密な経済計算ではない。詳しい計算論理は論文を参考にしていただきたいが、単純な倍率計算の解釈は、厳密な経済計算による解釈と変わりはない。生涯にわたって、社会に貢献し、奉仕しているのが日本の私立大学卒業生である。私の論理と計算のどこが間違っているのか、あるいは、世論がおかしいのか。どちらが腑に落ちるか教えてほしい。それが「費用負担のミステリー」を執筆した動機である。
財政収益率だけから、大学に対する公共投資の必要性を主張したいわけではない。教育の効果は、個人だけに帰属するわけではない。課税制度や人間関係やメディアを通して、広く社会に効果が波及する。このような外部効果のある投資を個人の支出に委ねていると、望ましい投資量よりも過少になってしまう。最適な投資水準を保つためには公的な支援が必要なのだ。
高校を卒業すると同時に就職する生徒は、2割にまで減少した。ところが、昔の中卒就職者のように「金の卵」といわれるほどに貴重な労働力になっていない。労働需要の量と質が大きく変わったからである。知識労働者が求められているのもそのためである。時代の雇用にあった教育が必要なのは若者だけではない。中高年の再教育を含めた皆のための高等教育が求められている。教育投資が雇用の機会を拡大させ、労働の質を向上させ、その経済力が高齢者の生活を支えている。教育・雇用・年金の相互依存体系を忘れたシルバーポリティクスは危険である。
大衆化が大学を悪くしたかのような見解をしばしば耳にするが、大衆化ではなく、冷淡な国民の世論が大学を悪くしたのだと私は思う。そんな下衆の犯人捜しよりも大事なのは、社会経済の変容にともなって、大学のさらなる大衆化が進展するだろうという社会認識である。「マンパワー政策」と「学術政策」の二つを連動させる「高等教育財政政策」を構築することが、今の日本に求められている「大衆のための大学政策」である。