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アルカディア学報

No.51

大学教育の質と経営―「高等教育政策と費用負担」を編集して

東京工業大学教授  矢野 眞和

 この春に「高等教育政策と費用負担-政府・私学・家計」と題する研究報告書をとりまとめた。平成年から3か年にわたって行ってきた文部科学省科学研究費による共同研究の成果報告書である。私たちは、それ以前にも、高等教育の費用負担に関する報告書を二度にわたって刊行してきた。ほぼ10年にわたる継続研究の成果を振り返ると内心忸怩たるものがないわけではない。しかし、延べ30名におよぶ共同研究の成果の中には、新しい知的刺激を提供したり、埋もれた研究課題を掘り起こしたものも少なくなかったのではないかと密かに自負もしている。
 今回の報告書の概要を紹介するようにとの依頼だが、論文執筆者は研究協力者を含めて24名、総ページ数にして522におよぶ大部である。しかも、その内容もかなりの広がりをもっている。とてもではないが、その全体を紹介することは出来ない。
 全体を4部構成に編集したが、今回の報告書の特徴は、次の2つの分析を柱にしているところにある。1つは、「私学の教育経営基盤」(第2部)であり、今1つは、「教育機会と学費負担」(第3部)である。執筆依頼の理由は、「私学の教育経営基盤」が編集者の目にとまったためだと思われる。しかし、この第2部に限定しても、掲載論文は9本になる。そのようなわけで、ここでの執筆は、研究代表者として全体の研究に関わりつつ、第2部の共同執筆者にもなった私の個人的感想を披瀝させていただくに留めたいと思う。個別の論文にご関心のある方は、報告書を参照していただきたい。
 今日の大学は、「量」と「質」と「財政」の3つの危機にさらされている。グローバルな社会経済の変化は、大学のマス化からユニバーサル化へという量の拡大を促している。しかし、その教育を支える財政基盤にゆとりはなく、必要な教育の質を保証するのが難しくなっている。3つの危機を乗り切る方策として、大学の「市場化」と経営の「効率化」が諸外国で共通に提案されている。大学を民営化すればこの3つが一挙に解決するという暴論もある。大学教育の営みはそれほどに単純ではない。短絡的な解決策を短兵急に選択する前に、大学を支えている政府・経営組織・家計の関係を教育理念に即して解明する必要がある。教育財政の規模と国際比較、外部資金導入のインパクトといった個別テーマ、および「教育機会と学費負担」という柱を取り上げたのもそのためである。
 私立大学の教育経営基盤を柱にしたのも同じ理由による。周知のように、日本の大学成長は、政府の力による結果ではなく、市場の力による帰結だった。わが子のためを思う親の願いが大学進学需要を押し上げ、この根強い需要が学校法人の大学設立(供給)意欲を駆り立ててきた。経済成長時代における大学の「市場化」が、日本型マス高等教育の特質を産み落とした。諸外国が、大学の市場化のあり方を模索している時代である。諸外国の経験に学ぶことは大切だが、外国の真似はいただけない。まず身近な日本の経験を十分に理解しなければならない。
 日本の大学の市場環境は大きく変わろうとしている。「危ない大学」が具体的に名指しされたりする時代である。しかし、現在の経営収支が悪い大学ほど危ないわけでもなければ、現在の経営収支の良い大学が安全なのでもない。「現在」の経営収支が「未来」に持続するとはいえないからである。大学経営の危機を叫ぶのはやさしいが、大学経営の多様性を「説明」するのはかなりの難問である。大学行動を理解する幅を広げないと、大学教育の可能性の範囲も見えてこない。よりよい教育は、よりよいお金の使い方の問題として理解しないといけない。そうでないと、よりよい教育の提案が現実性を帯びてこないからである。
 実証分析に参画した私の理解を大胆に要約すれば、私立大学の経営には、「全体に共有化されている力学」と「個別に許容される選択的戦略」の2つが作用していると思う。
 前者の全体力学は、平均的構造に与える影響であり、「費用の収入理論」と「規模の拡大理論」の2つが考えられる。かつてアメリカのH・ボーエンは、収入が大きくなれば支出の仕方も変動するのではないかと考えて大学機関の収支を分析したが、そこには一定の変動法則が見いだせなかった。いずれの支出項目も収入が多くなれば増加していたからである。この結果から、彼は「費用は収入で決まる」という理論仮説を提示した。わが国のデータ分析でも、この「費用の収入理論」が大きく作用している。
 今1つの重要な変数は、「規模」である。教育経営にも最適規模のようなものがあると考えるのは普通の発想である。しかし、それほどの明確な結果にはならない。読みとれるのは、規模の拡大によって、経営収支のばらつきが小さくなり、安定するという傾向である。規模の拡大志向は、最適規模の模索ではなく、経営の安定志向にある。
 後者の個別大学における選択的戦略としては、「規模の拡大戦略」「学納金の収入拡大戦略」「教育条件の改善(改悪)戦略」の3つがあげられる。この選択組み合わせが、大学収支に大きなばらつきをもたらす要因である。例えば、規模と学納金収入をともに拡大させ、教育条件をミニマムに押さえれば、当然ながら経営収支は良くなる。そのような大学も、実際に存在する。一方で、学納金をなるべく抑制し、質の高い学生の確保を考慮しつつ、教育条件を改善する努力をしている大学もある。こちらの大学収支はよくない。
 全ての大学が同じ行動原理に支配されていれば、大学別のデータにその行動原理が反映される。ところが、現実には複数の行動原理が存在するために、それらの行動法則を抽出するのが難しくなっている。そのために、分析作業過程で、奇妙な結果に遭遇することになる。2つの例だけを挙げておこう。1つは、有名大学ほど学納金が安く、無名大学ほど学納金が高い、という結果である。今一つは、学納金の多寡は志願率に無関係だという結果である。こうした結果は、価格を調整者とした自由市場の枠組みからみて奇妙である。奇妙な存在を部分的に説明できても、それが全体の法則になっているとはいいがたい。したがって、こうした奇妙な結果は、大学分類を操作すると消滅することにもなる。自由市場の理論枠組みからみて、奇妙な結果も妥当な結果もともに共存しているのである。
 教育水準の改善よりも経営重視の選択が可能なのは、学生が確保しやすかった過去の市場の特質だろう。そしてこれからは、「収入最大化戦略から支出抑制戦略」(浜中・島論文)に変化する時代だといえる。
 現状の問題点と変化の方向をある程度明らかにすることは出来る。しかし、最終的に残る大問題は、競争的市場の形成が、教育の質を保証し、経営の効率化を促すか、という問いである。競争的市場の形成は、大学行動を今よりも見えやすくするだろう。少なくともこれほど複雑にはならないだろうし、奇妙な分析結果も出なくなるかもしれない。しかし、だからといって、市場に委ねれば教育の質と経営の効率が一挙に保証されると考えるのは楽観的に過ぎる。
 大学をめぐる市場は、供給の参入と退出が自由かつ柔軟に変動し、供給が需要に適切に適応するとは考えにくい。需要と供給は相互依存の関係にもある。今後の市場変化を追跡しつつ、経営組織の行動変化だけでなく、家計行動との関係、および政府の役割(社会投資と教育機会)との関係を総合的に認識することが何よりも大切だろう。息の長い地味な研究努力が、錯綜した教育改革騒動の時代にこそ求められている。その努力が軽んじられている今日の風潮が、もっとも大きな大学危機だと私には思える。