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アルカディア学報

No.504

学修時間の確保は質保証に有効か
大学の構造的問題を問う

小笠原 正明(大学教育学会会長・北海道大学名誉教授)


 大学教育の質の指標として学修時間を用いることについて、さまざまな議論が行われている。日本の大学生の学修時間が少ないことは大学教育の関係者の間ではよく知られており、それ自体新しいことではない。データとして示されたのは3年前のことだが、私などは、米国の学士課程の学生と比較して3年生まではっきり少なく、卒業研究が始まる4年生でやっとイーブンになるという調査結果を見て、出るべきデータがやっと出たという感じがした。
 これが改めて問題となったのは、この8月の中教審答申が学生の学修時間を強調しているためだろう。論点は、学生の「授業外の学修時間」をどうやって正確に測るかということと、学修時間のような「即物的」な指標で大学の教育の質が測れるかという疑問である。前者は技術的問題を含むのでここでは立ち入らないとして、後者については、指標はあくまで指標に過ぎないことを確認した上で、日本の大学の構造改革に役立つ有効な指標であることを強調したい。
 構造的問題の第一は、日本の大学生が3年までは「授業漬け」の毎日を送っているということだ。特に理工系において、専門教育が本格化する2年目の後半から3年目が終わるまでが大変で、1日少なくとも2、3コマの授業を受けた上で実験・実習に参加している。2コマとしても準備と宿題のために8時間が必要で、これだけですでに学生が1日に使える時間数を超過している。時間割を作る際に、学生自身による学修時間など念頭にないことがわかる。予習・復習の推奨は大学を「学校化」するものだと批判する論者がいるが、現状こそ大学生として異常な「学校型」の生活ではないか?
 第2は、これとは逆説的ではあるが、各科目において授業回数が絶対的に足りないという事実がある。教科書その他を比較してみても、北米の大学に比べて実質半分の授業回数しかない。科目のあらすじを伝えるのがやっとで、演習や討論を通じて学生にフィードバックする時間がない。
 第3は、学士課程におけるコースワークの配分が異常なことである。これは第2の問題の原因にもなっている。大学院を含めて大学教育にはコースワークとラボワークという二つの基本的な要素がある。コースワークは、課程の学修課題を複数の科目等を通じて体系的に履修するもので、これが学士課程の根幹となっていることは言うまでもない。ラボワークは、教員主導の研究活動と一体となった教員の個別指導が中心の教育で、日本では「卒業研究」または「卒業論文指導」と呼ばれている。コースワークは、4年課程なら4年間に均等に配分することが原則で、海外ではだいたいそうなっているが、日本の大学では、いつ頃からか、4年生にほとんどコースワークを課さないという習慣ができた。ラボワークに集中させるためと説明されているが、その趣旨はカリキュラムからは伺えない。1年間の卒業研究に対して6単位か、せいぜい8単位しか配分されているにすぎない。つまり、日本の学士課程の特徴とされるラボワークに費やす時間は、形式上70%から80%までオプションまたはボランティアワークということになる。
 このカリキュラムの曖昧さが、大学の教育課程を企業の求人活動の浸食にまかせる原因となった。「就活」だけに1年以上を費やすという世界に類をみない珍現象を生み出した責任は、企業だけではなく大学の側にもある。こうして、コースワークに費やされる時間は形式的には北米の大学の約4分の3となった。授業時間外の学修時間の少なさを考えると、実質は2分の1程度まで下がるだろう。
 しかし、学士課程のコースワークをどうやったら実質2分の1の時間で消化できるのだろうか? この謎を解く鍵は、週1回90分の授業を半期受けて試験に合格すると2単位をもらえるという「制度」ないしは「慣習」にある。もともと、60分週2回の授業を教員の都合か何かで2回続けて行うことにしたが、120分はとても持たないということで90分に短縮されたのだろう。しかし、認知科学が教えるところによると、1回の授業に含ませることのできる内容には限りがあり、時間を2倍にすれば教育効果が2倍になるわけではない。ましてや、1回分の1.5倍の授業時間で2倍の内容が消化できるはずがない。大学生活のある時期が授業漬けになるのも、授業回数が足りなくなるのもそのためである。
 一度このトリックを認めてしまえばあとは何でもありで、ダブルスクールも可能だし、学士のおまけとして各種の資格もくっつけることもできる。国際的に見て異常に短い授業外の学修時間も、コースワークが見かけの2分の1だとすると、それなりの長さだという見方もある。
 学修時間という指標を通して、ざっとあげてもこれだけの問題が浮かび上がってくる。大学の教育の質を分析するのにきわめて有効な指標だと考える由縁である。中教審答申にある「学生の学修時間に着目して学士課程教育の改善を図る」という文言を忠実に実行しようとしたら、おそらく次の二つの問題に取り組まなければならない。
 一つは、学士課程におけるラボワークの比重は、どの程度が妥当かを真面目に考えてみること。本来、コースワークが分担すべき教育内容をラボワークに押しつけていないか? 討論をすること、文献を読むこと、文章を書くことまでラボワークに頼っていないか?こういう基本的な能力は、コースワークにおいて体系的に、合理的に、時間をかけて培うべき内容で、実際にそうすることが可能である。
 二つ目は、コースワークを見直して組織的に強化すること。ラボワークを重視するのが日本の大学の動かしがたい伝統だと考えるなら、それに見合った単位数を卒業研究に配分し、その代わりコースワークの単位数を削減しなければならない。大学院との関係で、ラボワークの比重をそれほど大きくすべきでないと考えるなら、4年間の課程にコースワークをなるべく均等に配分すれば良い。そのような整理を行った上で、例えば2単位科目については1回の授業時間を60分とし、週2回開講するようにしなければならない。要するに、建前と実態とをできるだけ一致させて、カリキュラム上の「欺瞞」を解消する方向に向かうべきだ。
 この二つに取り組む過程で、必然的に日本の大学に固有の教育文化の問題が浮かび上がってくるだろう。日本の教員は、ティーチングに忙しいのではなく、少人数教育と研究室教育に忙しいことは、中教審答申の別紙のデータにも示されている。学生を小分けにして囲い込んで教育したいという願望は、教員の研究室第一主義と結びついて現状の変更を拒んでいる。また、TAや授業補助者の組織化が必要な大型クラスのアクティブラーニング化を妨げている。中教審答申は、このような問題を踏まえた上で学修時間を教育改革の指標にしようと目論んだはずだ。しかし、それならそうと、どうして直接踏み込んだ提言をしなかったのか、という疑問は残る。日本の大学の構造的問題に正面から立ち向かえるのは、現場の教員でも機関の長でもなく、中教審そのものだと思うからである。