アルカディア学報
大学教育はだれが担うのか
失望、危惧―中教審答申を読んで
中教審答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」が、8月に公表された。平成20年7月に閣議決定された教育振興基本計画は、5年間を高等教育改革の転換と革新に向けた始動期間と位置付けた。同年9月には中教審に「中長期的な大学教育のあり方について」が諮問され、爾来、いくつかの答申が出された。その5年が来年には過ぎ、今年8月には「第二期教育振興基本計画について(審議経過報告)」が出された。つまり、このたびの答申は、今後5年間の高等教育改革の基本線につながる意味を持つのである。しかし、残念なことに答申を一読して失望し、精読して懸念すら持った。これで、大学教育が良くなるとは思えない。
90年代の大学教育像?
まず、描かれている大学教育像は90年代のものかと驚かされた。「従来のような知識の伝授・注入を中心とした授業」からの転換を謳うが、いまどき、どこの大学が知識注入授業だけに没頭しているだろうか。主体的な学習者の育成は、大学教員が日常的に取り組んできたことであり、その蓄積は初年次教育、PBL教育、学習支援体制など多岐にわたる。90年代には、大規模な国立大学でも教養教育にゼミナールが導入され、東北大学でも、「学びの転換」を目指す基礎ゼミを2002年からスタートさせ、大きな成果をあげている(『大学における初年次少人数教育と学びの「転換」』東北大学出版会、2007年)。答申には、こうした大学人の努力と成果が全く反映されておらず、半ページ足らずでいくつかの大学の取り組みを参考として記述しているに過ぎない。しかし、頻繁に引用される「学士課程教育の現状と課題に関するアンケート調査」でも、学生の学修成果に関し、「課題に適用し、解決する能力」以外は、学長・学部長とも50%から70%が肯定的に回答している。ここ10年、大学教育の現状に対する批判は厳しい。次代を担う大学は謙虚に耳を傾けるべきではあるが、根拠がなく思いこみに基づく批判も少なくない。課題もあるが進歩もあるのが現実である。答申にはこうした視点がなく、これでは大学バッシングを促進するような書きぶりである。4年前には、包括的な「学士課程教育の構築に向けて」が公表されたばかりだ。同答申の提言に沿ったレビューとそれに基づく課題のあぶり出しが何よりも求められたのではないだろうか。
なぜ学修時間の増加が好循環の起点?
質的転換への好循環の始点としての学修時間の増加と言う提言には更に驚く。教育改善の難しさは諸要因の複雑な関係性にあり、学生の学力・意欲、カリキュラムの体系性や構造、教師の教育力、施設・設備など多様であり、専門分野の特性もある。学修時間の増加を促す施策が、教育改善全般を促進させるというロジックが分からない。技術革新や設備投資が経済成長をもたらすといったような一義的因果関係を、教育において聞いたことがない。資料編では、10を超える調査結果が添付されており、審議過程では単なる思い付きではなく、データに基づいた議論を試みたことは分かる。しかし、これらの調査結果から、学修時間の増加が好循環の起点になるという結論がなぜ導かれるのだろうか。外国と比べて学修時間が短いことを認識したと書いてあるが(11頁)、まさかこれだけの理屈ではあるまい。教育改善の複雑な関係性から演繹される改革方策のあり方は、トータルなビジョンを示しながら具体的な方策を提示することであり、根拠のないポリティカル・ワンイシュー(「郵政民営化は行政改革の本丸」の如き)は回避しなければならない。
学習者の視点はあるのか?
もし、教育改善への起点となりうるものがあるとしたら、それは学生が学ぶ意味を自分の人生や社会との関係の中で明確にし、知識を現実と結びつけ、構造化された認識・感性・行動の主体へ成長する意欲を持つことである。80年代からの認知科学の発展は、知識はばらばらなものでなく、学習者の積極的な意味づけと活動を必要とすることを明らかにした(R・K・ソーヤー『学習科学ハンドブック』2006年)。大学での学習への適応の第一歩は、学習者自身が学習の意味を獲得することにあり、学習意欲の構築こそスパイラルの起点である。学習者の動機づけの重要さは、過去筆者が行った調査でも、今回の学長・学部長調査でも指摘されているにもかかわらず、答申では言及されていない。大学における学習意欲の構築は、初年次においてもっとも重要であり、大学への帰属感を含めて教員や学生集団の役割は大きく、正課教育だけの課題ではない(『大学における初年次・導入教育最終報告書』早稲田大学教育総合研究所、2007年)。筆者は、90年代に広島大学で教養ゼミの導入・実施にかかわり、現在は東北大学で基礎ゼミの運営に参画している。ともに初年次において大学への適合を目指すものでありながら、前者は学部単位の開講で、専門の基礎的性格が強く、後者は、学部・専門を超えた履修が可能で、学際・融合的な学習の動機づけに成功している。両者の違いをもたらしている要素は単純であり、広島大学で学部を超えたゼミができなかったのは、そのための教室数が確保できず、学部ごとで開講せざるを得なかった事情が大きい。教育方法の改善は施設・設備に負うところが大きいがこれも答申では触れていない。また、大人数授業は避けられないのだから、双方向への授業への転換だけを提言しても現実的ではない。今後、中教審には認知科学の専門家が参加し、学習理論に基づく提言が必要だろう。
教員のリーダーシップなしに教育改革は成功しない
学長リーダーシップに基づく改革の手順も首をかしげる。もちろん、大学執行部が教育改革に関心を持ち、資源の投入を行い、部局の専門主義を超える調整を行うことは不可欠である。だが教育改革は教員と学生の支持なしには成功しない。教育改革はきれいごとではなく、部局や専門の利害が衝突するが、これらの対立を克服できない大きな理由は、教員が狭い専門分野で育ち、それ以外の文化的価値や行動様式を理解しないことによることが大きい。大学における改革論議は、実らないことも多いが、大学教員がより広い視野で大学教育を考える舞台でもあり、現場において単なる研究者から、大学教員へ職能成長を行う契機である。学長のリーダーシップは、こうした教員のリーダーシップを促進し成長させる、より上位の機能であるべきである。もちろん、答申に述べられた改革手順が有効な大学もあるが、これがすべてではない。教育における多様性と文脈依存性はどこでも語られ、諸外国の高等教育研究者との論議では、うんざりするほど聞かさせられるのに、なぜ、単一の適正解があるように述べられるのであろうか。もっとも、大学と高校との接続に関する諮問が8月に行われるなど、議論は完結していない。関係者の真摯な議論と努力に期待したい。