アルカディア学報
欧州諸国の大学評価―実地調査にみる印象
9月初旬から2週間、大学評価の調査のため、イギリス、オランダ、フランス、ドイツの4か国をまわってきた。
余談だが、その間にアメリカで同時多発テロ事件が起こった。当地でもたいへんなショックと騒ぎで、連日、BBCやCNNの報道を追った。テレビにはイギリス、フランス、ドイツの政治家が連日登場して、自国を代表した所信を述べる一方で、日本の反応については何の報道もなく、いたずらにパールハーバーの悪夢だけが強調されるのは、なんともやりきれない思いだった。アメリカは真珠湾以外には本土を攻撃された経験がなく、それだけしか引き合いに出すだけの分かりやすい実例がなかったからであろうか。もっともライス米大統領補佐官が、今回のテロとパールハーバーとを混同すべきではないと言明したのが一抹の救いではあった。帰国後に見た報道番組(ヒダカ・レポート)のなかで、「アメリカは日本にあまり協力を期待していないようだが」という質問に対して、米国のジャーナリストたちは、湾岸戦争当時の日本は金持ちだったが今はカネがないことを知っているから、とくに援助を求めないのだという意味のことを言っていた。もっとも日本は重要な国であり、長い目でみれば必ず協力が求められるだろうとも付け加えていたが…。
こうした余談にふれたのは、旅行中、海外では、経済力に陰りの出てきた日本は、かくも存在感のうすい国としか意識されていないのか、という印象を禁じ得なかったからである。飛躍するかもしれないが、それは日本の政治や経済ばかりでなく、高等教育の分野も例外ではないように思われた。面談した大学関係の専門家たちは、日本の高等教育にほとんど関心を示さないばかりか、国際高等教育界における競争相手ともみなしていないようにみえた。日本を代表する著名大学の名も殆ど知られていないのは残念だった。むろん、ごく限られた経験で一般化するのは誤りだろうが、これが日本の高等教育全体に対する国際的評価の一端を象徴するものでなければと願う。
本題の大学評価の問題だが、限られた見聞のなかでも、いずれの国でも評価は高等教育にとって、もはや切り離すことのできないものとなっている。ロンドン大学のG・ウイリアムス教授は、資源配分にリンクした英国の大学評価システムは、問題点は多々あるが全体としては高等教育の質の保証および改善に有効性を示したと思う、と肯定的な見解であった。もっとも高等教育の活性化に資すどころか、むしろ大学を萎縮させたという批判や、あまりにも煩瑣な時間のかかる評価の準備のために、かえって教育・研究の機能の障害になったという問題点を指摘する名門大学教授もいた。
とくに印象深かったのは有名新聞社が発行する大学案内で、ここには全英の大学の質の評価が、あらゆる観点から序列化されている。組織全体の平均得点によって、トップからボトムまでをランキングするばかりでなく、研究、教育、社会サービス等々の面からのみならず、それぞれの学科、専攻の評価までが、はっきりと序列化されている。この種のランキングはべつに目新しいわけではなく、本家のアメリカから始まって、オランダ、ドイツのいずれの国でも盛んである。それはタテマエとしてはすべての大学が平等かつ同水準のステイタスを持つとされた欧州の大学が、もはや実質的には多様化し、格差ができてしまっているということ、それに大学を選ぶ者にとって、大学の差異や個性・特色を知ることが必要不可欠になってきているということを意味する。
おもしろいことに、ドイツでは大学があまりにマス化し、多様化したために、オランダでは逆に大学間の差異があまりにも小さいために、ともに大学の正確な情報が必要になり、大学のランキングが盛んになっている、ということである。ただし両国ともこのランキングを試みているのは、シュピーゲルやフォーカスなどのマスメデイアで、公的機関が関与しているわけではない。
ところがイギリスの大学ランキングで注目すべきなのは、その序列化のベースとなっているデータの多くが、高等教育財政配分機構(HEFC)や質的保証機構(QAA)のような、公的な評価機関の提供する資料に基づいている、ということである。このような序列化は、単にマスメデイアの恣意的ないし市場的評価ではなく、権威をもった公的機関によって正統化されている、という意味において、きわめて確定的で影響の大きい序列化になり得るのである。
日本でも大学評価・学位授与機構によって国立大学の評価が本格的に始まっている。同機構が各大学から収集したデータや評価結果は、機構によって公表されることになっている。公にされたデータは、マスメデイアや評価会社、受験産業等によって加工され、大学の格付けや序列化に利用される公算が高いと思われる。そうなると日本の国立大学もイギリスの大学と同じように、公的機関から提供される「権威ある」データに基づいて、トップからボトムまで、あたかもスポーツの勝敗や番付けのように序列化されることになりかねない。そして、やがて全国の国公私立大学がすべて序列化されることになるとすれば、まことに恐ろしい事態といわざるを得ない。
かつて筆者は大学評価・学位授与機構に対して、このような事態の到来に同機構はどのような対策と考えをもっているのかを質問したことがある(アルカディア学報13「大学評価・学位授与機構の評価実施方針を問う」2000年11月8日付教育学術新聞)。しかし、あれから10か月を経るが、今日に至るまで、同機構からは何の意思表明もなく、このような問題の発生に対する問題意識も伺われないのは甚だ遺憾である。
欧州の大学評価の問題では、ほかに報告したい問題が多々あるが、紙幅の関係で、日本とも関連する点を挙げるにとどめる。ひとつは、大学評価を直接的に資源配分に結びつけているのはイギリスだけであり、欧州諸国では英国的評価は例外的な事例、ある学者によれば最悪の事例(worst example)とみなされていることである。いまひとつは、大学評価は政府の手に委ねるのではなく、大学自らの自律性にまつべきであるという信念が頑固に志向されている、ということである。政府の直接的な介入と大学の自律性の喪失へと向かおうとしているかにみえる日本の高等教育は、まさにその逆を行こうとしている。その先には何が待っているのだろうか。