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アルカディア学報

No.485

グローバル時代の日本の大学 人材育成 私学に活力を

研究員  米澤 彰純(名古屋大学大学院国際開発研究科准教授)

 グローバル時代の大学教育論議が各地で盛んに行われている。秋季入学に関する議論、グローバル人材育成論など、大学、政府、経済界がそれぞれの視点に立ちながらも一様にその切迫した必要性を主張しているように思われる。このような折、2012年6月4日に、政府のグローバル人材育成会議の審議まとめが公表された。その内容は率直に言えば、現時点で実行可能であると思われるあらゆる行動がリスト化されたもの以上のものではないとの印象を持つ。同時に、このまとめは、一昨年あたりから本格化した議論がすでに、大学教育のグローバル化やグローバルに活躍できる人材を育成すべきという「べき」論から、「いかに」これらを実現するかという実践論へと、大きく進展していることの表れでもある。
 同審議まとめは、「新たな時代の我が国の成長の牽引力となるのがもはや一握りのトップ・エリートのみであることを意味しない。様々な分野で中核的な役割を果たす厚みのある中間層を、言わば『21世紀型市民』として形成する上でも、今後は、国際社会との関わりを抜きにして語ることはできない」としており、このグローバル人材育成論の対象が幅広い大多数の市民であることが明記されている。その上で、業務上の文書・会話レベルまでの語学力・コミュニケーション能力を担える人材の裾野の拡大については「着実に進捗しつつある」とし、二者間や多者間の折衝・交渉が担える人材の育成が課題との認識を示している。
 大多数の私立大学の現場の視点で見た場合、この審議まとめが示す方向性が、どの程度現実的かについては、大きな疑問が浮かぶであろうことは想像に難くない。例えば、東大や英語で授業を行い在学中の留学を義務付ける国際教養大学などが掲げる、秋季入学までの半年間に海外体験などを奨励しようという野心的なギャップ・タームを、現実にどの程度の割合の学生が有効に活用できる能力と経済的ゆとりをもつのかについては慎重な意見がでてきて当然であろう。また、社会人基礎力の習得がそもそもおぼつかない大学生が多数を占めるといわれる中で、国際社会で十分活躍できるような外国語でのコミュニケーション能力と異文化理解・活用力を兼ね備えた人材を目指すことができる学生がどの程度数として期待できるのかなど、「べき」論の時点で本来詰めておくべき論点が、いまだ置き去りにされたままであるからである。
 他方で、私が勤務する国立の名古屋大学などが典型的であるが、私立を含め、比較的雇用吸収力が高い大都市に位置する選抜度が高い大学では、いまだ高望みをしなければ大多数の学生がなんとか就職できてしまう現実もある。多くの市民が、今の日本を取り巻く環境が厳しいことを頭ではわかりながら、政府を含めた一部の論者の主張に現実味がなく、上滑りしているのではないかとの疑念を抱くことはやむをえないのかもしれない。
 筆者は、すでに貧困問題にまで深刻化している国内の社会経済的格差の存在を肯定する立場にはもちろんない。また、教育の現場で人格的序列と同等視されがちな「能力主義」が、グローバル化への対応が強調される中でますます大多数の学生や生徒たちに対して過大なプレッシャーや、努力でどうにもならない格差感や敗北感をもたらしているという議論に対しても、賛同するところは多々ある。
 しかし、世界の動きは、こうした問題がすでに国内問題としては処理しきれないほどの規模で急速に変化していることからも、目を背けることはできない。ユネスコ統計によれば過去10年ほどの間、世界の高等教育における学生人口は年間平均約780万人増加しつづけている。また、経済協力開発機構の統計では、世界の留学生人口は2009年に370万人に達し、ほぼ日本の高等教育学生人口に匹敵する数となっている。大卒に広がる就職難の問題は、こうした世界的な高等教育修了者の爆発的増加と切り離して語ることはできない。
 留学生の就職市場での価値上昇も考えなくてはいけない。企業が求めているのは自国語に加えて英語・日本語の三か国が使いこなせ、基礎学力とバイタリティを兼ね備えたようなスーパー留学生である。東アジア最大の留学生輩出国である中国を中心に非エリート型の留学生人口は増え続けており、彼らは自国の一流大学に入学できない場合の代替手段として、留学という手段を選択している。日本の私立大学で学んでいる、英語はもちろんのこと、日本語、自国語双方とも十分に使いこなせているとは言えない多くの留学生は、日本に残ろうと、自国に帰ろうと就職市場において厳しい現実が待ち受けている。
 そして、東アジアからの優秀な留学生の獲得のために、欧米、豪州のみならず、シンガポール、香港、台湾、韓国、そして中国もまた、大学と政府とが入り混じってしのぎを削りあっている。シンガポールで学ぶ北京出身のエリート学生が、昨年中国大陸の学生受入を開始したばかりの台湾を留学先とするのは、広東語を学ぶ必要がある香港よりも魅力的だからだ。このような世界のなかで、強力な自前のリクルーター組織を保有しない日本の大多数の中小規模の私立大学が優秀な留学生を獲得するのは至難の業である。
 多くの大学にとって、国際化はリスクと高い費用負担を伴う。仮にある程度安定的な志願者層と国内の就職先を確保できている場合、冒険しない、という選択肢は常にありうる。ただ、数年後に始まる第二波の若年人口減少と明るくない景気展望を目の前にした時、この「引きこもり」シナリオで生き残れる私立大学は多くないであろう。
 質保証を担う政府は、国内学生を十分に集められない大学の国際展開に対しては警戒的にならざるを得ない。お隣の韓国では、留学生受け入れについての認可制度が新たに始められ、同時に経営困難な私学への撤退誘導策が次々と打ち出されている。さらに、各国では景気低迷と財政緊縮の中、国家公務員の給与引き下げは国立大学にも及んでおり、日本の国立大学もまた、その体力を温存させつつ私学的な行動を強めていくであろうから、私学への影響は大きいだろう。
 発想の転換が必要である。社会人基礎力と語学力が不十分でも、異文化理解・活用能力を付けることはできるし、そこから学生に学習への動機づけをさせていくこともできる。グローバル人材育成会議行動リストを序列づけや選別のために用いるのではなく、やれることから挑戦していくことを勇気づけていくための道具として、私学に活力をあたえることはできないだろうか。私学たることの意味を、国際的な文脈で改めて再定義することが、生き残るための唯一の手段と思われる。