アルカディア学報
世界を変える人材をどう育てるか大学の文化的観点から (上)
卒業を待たずして世界を変え始める学生たち
昨年アメリカで大ヒットとなりアカデミー賞三部門を受賞した映画「ソーシャルネットワーク」は、今や世界最大のSNSとなったフェースブックを立ち上げたマーク・ザッカーバーグらの活躍をドキュメンタリー風に描いたもので、日本でも今年に入ってから一般公開され大いに話題を呼んだ。
ザッカーバーグがフェースブックを立ち上げたのは、ハーバード大学の学部生の時だったが、アメリカの大学では学部・大学院を問わず、在学中に会社を興し成功する学生は少なくない。ビル・ゲイツはハーバード大学、ヤフーのジェリー・チャンとデビッド・ファイロ、グーグルのラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンは、いずれもスタンフォード大学院在学中に起業している。現在PCメーカーとして世界のトップシェアを誇るデルも、もともとはテキサス大学オースティン校の学生寮の自室でマイケル・デルが始めたものだ。この辺りは日本でもよく知られている面々だが、IT分野に限らずアメリカでは学生や20代の若者によって、世界が大きく変わるようなビジネスやプロジェクトが始まるのは、決して珍しいことではない。
もちろん日本でも、リクルートやライブドアなど、学生が起業し成功した例はあるが、やはりその頻度やインパクトにおいてはかなりの開きがある。特に「グローバルに世界を変える」という点においては、アメリカの大学生たちの方が一枚も二枚も上手だといえる。
アカデミック・コミュニティーにおける「斜めの関係」の大切さ
では、このような起業家精神やチャレンジャー精神溢れる大学生や大学院生を生み出す源となっているのは、一体何なのだろうか。ここでは、現在私が勤めているマサチューセッツ工科大学(MIT)を例にとって考えてみたい。
まず重要なのは、文化的な背景だ。一言でアメリカの大学といっても、各キャンパスの文化は多種多様だが、MITのユニークな文化としてまず挙げられるのが、「学生を学生扱いしない」ということだろう。語弊があるように聞こえるかもしれないが、例えばMITに入学した学生は、1年目から「ここはアカデミック・コミュニティーであり、君たちは、ジュニア・リサーチャーなのだ」という薫陶(くんとう)を受ける。日本の大学では、一般的には、大学院においてすら「修了して学位を取るまでは、一学生にしか過ぎない」と目される徒弟制度的な色彩の強い文化が支配的だが、MITでは、極端に言えば、「教授は、学生の仲間であり『大先輩』なのだ」というような雰囲気に満ちている。人にもよるが、学部の学生にも自分のことをファーストネームで呼ばせる教授も多い。大学院生ともなれば、ほとんど例外なく日常的に教員とそのような「アカデミックな同僚関係」となる。これは、垂直というよりは水平に近い「斜めの関係」だとも言える。
教員が学生たちから教育や研究のプロフェッショナルとして尊敬されているのは言うまでもないが、だからと言って、教員がMITというアカデミック・コミュニティーの中で「絶対的権威」を謳歌する者として立ち振る舞っているわけではない。学内では、よく「プッシュ・バック(PushBack)の文化」と呼ばれるが、「研究や学問の純粋な面白さ」や「学究の徒としてのものの見方やアプローチ」を伝えようとする中で、教授は学生たちに挑戦し、学生たちも同じように教授に挑戦し返す。それが、MITの教育文化の真髄だ。講義室や実験室の内外を問わず、知的に挑んでくる果敢な学生に、教授が正面から真剣に取り組む様子は、さながら武芸の道場における稽古や練習試合を彷彿とさせる。時として、他流試合も有りだ。
さらにMITでは、学生は、“Don’t ask for permission. Ask for forgiveness.”とよく言われる。これは、何をするにも自分の教授に「こういうやり方でやってもいいでしょうか」と顔色を窺って許可を得るよりも、「まず率先して自ら思うままにやってみて、もし結果がダメなら後で許しを請えばいい」ということだ。
勿論、これは「放任主義」を意味する訳ではない。教授に「これはやってもいい、これはやってはいけない」というお墨付きをもらわずに、自分の思うこと信ずることを試すということは、それだけ結果に対する自己責任も大きくなることになる。また、学生としてはできるだけ良い結果を出し「アカデミック・コミュニティーの中で認めてもらう」ために、様々な創意工夫を怠らなくなる。
さらに、学生に実力をつけさせ、それを十二分に発揮させるための教育を徹底することにも余念がない。MITでは、入学時には専攻する学部や学科が決まっていないため、初年次教育では、全員が多岐に渡って基礎的な科目を履修することになっている。教員達は、個々の学生に「自分が本当に何を専門として学びたいのか」を探究させるため、膨大な量の学びを課す。このMITでの初年次教育の凄まじさは、学内では、“drinking from a fire hose”という言葉で表現される。まるで、消火用の太いホースから凄い勢いで放出される水を呑まされるような強烈な学習体験を、MITの学部の一年生は浴びせられる、というわけだ。
「世界を変える原動力」としての大学
少々余談になるが、この言葉通り“drinking from a fire hose”という銘打たれた飲水機が、実際にMITの学内には存在する。普通の飲水機の飲み口に消火用のホースの先が取り付けられ、ホースはすぐ横にある消火栓に繋がっており、実際に水を飲むことができる。これは学生たちの手による「いたずら心」に溢れた作品だ。MITには、長年に渡って育まれてきた、このような通称“Hacks”と呼ばれる「いたずらの伝統文化」が存在する。パトカーの塗装と装備を施した本物の車を、大学のシンボルである本館ドームの上に一晩で乗せてしまったり、ビリヤード台まで備わった応接ラウンジの家具セット一式を、全て逆さまにして天井に固定してしまったり、学長室の入り口を巨大な掲示板が掛かった壁に偽装して消失させてしまうなど、20年以上にわたって、これまで何十という奇想天外な“Hacks”が行われてきた。素晴らしいのは、その一つひとつが、ただ人々を驚かせるだけでなく、「科学者魂」や「工学者魂」とも呼べるような豊かな発想や精巧な技術の結集によって成り立っている、ということだ。
私がMITに赴任してからまだ二年余りしか経っていないが、日々の仕事を通じて、常に新しい発見や発明を追い求め、挑戦し続けることを恐れない学生たちが、どのようにして知的・精神的に鍛え抜かれ、瞬く間に成長していく姿を目の当たりにしてきた。このように優れた人材を大勢育てられて初めて、大学は「世界を変える原動力」となることができ、また社会からもそのように認知されるようになるのだ、ということを痛感せざるを得ない。そしてそのような人材の多くが、アカデミック・コミュニティーをさらに活性化させ、大学の進化の担い手となることは言うまでもない。(つづく)