アルカディア学報
大学入試のパラダイム転換公的な“制度”の見直しを
東日本大震災で被災された大学関係者の皆様に衷心よりお見舞い申し上げます。3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震は、M9.0を記録した。当日、筆者は秋田大学主催のシンポジウムで、自らの講演を終えて休憩中であった。館内はすぐに停電し、余震も続いたため、シンポジウムはただちに中止となった。タクシーでホテルに戻ると、館内は全館停電しており、危険であるとの理由から客室に入室できず、ロビーで大勢の宿泊客とともに、待機することとなった。
宿泊客の中には、翌日の秋田大学後期日程試験受験のため、茨城、千葉、遠くは静岡からやってきた受験生とその保護者が多くいた。夜も更けてから、ホテルスタッフによる誘導で、各自の部屋に戻ることはできたものの、停電は続き、余震も頻発する中で、明日受験を控えた彼らの心中はいかに不安であったことか。また、災害時の通信制限のため、携帯電話も使えず、受験生は家族とも連絡がつかず、自分のことよりも家族の安否を心配する受験生も多かった。何よりも、試験がどうなるかの情報が全く入らないことが、彼らの不安をさらに大きなものにしていた。唯一の情報源はホテルのフロントに置かれた携帯ラジオのみであった。刻々と流れる地震情報の中で、秋田大学は予定通り実施するというアナウンスがあったが、東北地方の他の多くの国公立大学は、試験を中止あるいは延期とするとのことであった。
明くる12日、停電も続き暖房も止まる中で、秋田大学では学長以下教職員の懸命の作業により、時間の変更はあったものの試験自体は無事実施された。
大学入試といえば、毎年何がしかの事件や事故がつきものである。多くは出題ミスや採点ミスであるが、今年は、携帯電話を使った不正受験行為が世間の耳目を集め、刑事事件にまで発展した。従来から極めて厳格、厳正に実施されていると思われた大学入試の会場において単独で携帯電話を使って不正行為が行われたことは、大学関係者のみならず、社会にも大きな衝撃を与えた。
我が国の大学入試は、大学入試センター試験の実施に象徴的に見られるように、公平性や厳正さを前提に、1分1秒の遅滞も許されず、試験が1分でも早く始まったり、逆に1分早く終わったりすれば、大学の責任者である学長や学部長が当該受験生のみならず社会に向かって謝罪しなければならないほど「神聖」な行事である。しかし、近年出題ミスや採点ミスが相次ぎ、それは大学院入試にも波及している。数年前には各大学での過去問を相互に再利用しようとする大学グループも誕生し、さらにこれまで公平性の観点から、特定の教科書に掲載されている内容からは絶対に出題しないなどの規制があった大学入試センター試験も、作問の限界が見えてきたことから、少なくとも素材文の再利用は可能となった。
今年起きた大学入試にまつわる二つの出来事は、一つは自然災害、もう一つは個人による不正行為という全く性格が異なる出来事であるが、ともに、これまで我が国で信奉されてきた大学入試の公平性や厳正さに鋭い疑問を投げかけているのではないだろうか。大地震を経験し、不安におののく受験生。停電で受験前夜に教科書や参考書に目をとおすことができなかった受験生。これらの受験生は他の受験生と公平な条件のもとで受験できたのであろうか。また外部からの通報により発覚した携帯電話による不正行為の事例は、これまでも不正行為は見逃されてきたのではないか、という疑念を生じさせ、大学入試の公平性や厳正さの前提を根底から覆しかねない出来事であった。
これまでも大学入試を巡っては様々な問題が生じ、幾度となく入試制度の改革が実施されてきた。しかし、明治に我が国最初の大学が設置されて以来、変わらない発想がある。それは、大学入試は個々の大学が実施するという発想である。もちろん、入学者の選考は個々の大学の責任で行うべきではあろうが、入学者選考のための学力試験を個別の大学が実施しなければならないことは必ずしも「自明」の原理ではない。実際、周知のようにアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどでは個別に学力試験を実施している大学は極めて例外的で、共通試験を前提に入学者選考が行われている。
まさに、作問能力の限界、出題ミス・採点ミス、不測の事態の発生などを勘案すれば、入学者選考に必要な学力試験は、それぞれの大学が独自に実施しなければならない、という発想の根本的転換、すなわち、大学入試のパラダイム転換が今求められているのではないだろうか。
入学試験実施のために大学や受験生、そして日本社会が費やしている金銭的、人的、心理的なコストは莫大な量に及ぶ。学生の確保と多様な学生を入学させるため、大学の入試業務はほぼ通年化しており、新学年の準備、開始が時間的にぎりぎりのスケジュールの中で行われている。教員の多くが入学試験は、極めて重要な仕事と言いつつも、一方で繁忙化を嘆いている。ほんの一握りの若者が大学に進学していた時代と、2人に1人が大学に進学するようになった現代では、大学教育の在り方にもパラダイム転換が求められている。同様に、大学入試の在り方にもパラダイム転換が必要である。大学入試に膨大なエネルギーを傾注するよりは、入学してからの教育にもっとエネルギーを傾注し、コストを割くべきではないか。
では、どのようなパラダイムに向かうべきか。この点について筆者の考えを述べれば、次の三点がポイントになろう。
第一点は、個別の大学が実施する学力試験を原則廃止し、現行の大学入試センター試験のような共通学力試験へ移行することである。個別に適切な学力試験問題を作問するよりは、大学が共同して大学で学ぶために必要な学力を適切に判定できる問題を開発する方が、我が国の高等教育全体の底上げに資すると思われる。この共通試験や高校から送付される調査書に加えて、各大学で、必要に応じて面接、小論文を課したり、あるいは補完的な試験を実施したりすればよい。学力試験を共通化することにより個々の大学や教員の負荷はかなり軽減され、また入学者の学力低下に一定の歯止めもかけられるかもしれない。代わりに、各大学のアドミッション・ポリシーに沿った丁寧な選考が可能になるのではないだろうか。
第二に、しかし、毎年3月までに入学者選考を終え、4月から新学年が始まる現行の学年暦では、入学者選考の業務の軽減化や丁寧な選考という点では問題は解決されない。また、高校生は高校の教育課程を全て修了しない時点で試験を受けることになり、共通試験の出題範囲も制約を受けることになる。そこで、大学の入学時期を秋に移行することが望ましい。実は、明治の一時期まで大学の入学は秋だったことを多くの識者はご存じのはずである。そうすれば入学者選考は高校を卒業してから時間をかけて行えるようになる。
最後に、入学定員制の問題がある。確かに、教育の質を保証するためには、過度の入学定員超過には問題がある。しかし、定員を厳格に守るために、合格と不合格が、小数点以下の点差で決まることもままあると聞く。入学後の教育や学習の可能性から見れば、入学試験の1点差は全く無意味であるが、受験生からすれば、この差は人生を左右する致命的な差である。それゆえに、これまで我が国の大学入試には公平性と厳正さが求められてきたのである。定員に関しては、質の保証を考慮しつつも、一定の幅を持った運用が、とりわけ国立大学には許されるべきである。
大学入試の問題は、我が国では大きな社会的関心と論争を呼ぶ。一つの公的な「制度」となっているからである。今指摘した三点だけでも、容易に合意できない課題であることは明々白々である。したがって、大学入試の問題は個別の大学での議論よりも、国全体での議論が不可欠であり、必要である。とすれば中央教育審議会が適切な議論の場ということになるが、第4期審議会の答申「学士課程教育の構築に向けて」には「高大接続」が含まれており、これに基づいて北海道大学の佐々木隆生教授を責任者とする研究グループが「高大接続テスト(仮称)」の必要性を提言する報告書を昨年公表した。しかし、第5期の審議会では、高大接続や大学入試は審議の俎上に上ることはなかった。第6期の審議会は、東日本大震災の影響もあり、まだ実質的な審議は始まっていないが、第7期くらいまで時間をかけて結論を出すくらいの展望を持って、我が国における大学入試のパラダイム転換に関する広範で、徹底した審議を期待したい。