アルカディア学報
国際評価は公正か―自虐的な日本人の大学評価
文部科学省は去る6月、「競争と評価を通じ国公私を問わずトップ30(全体の約5%)の大学を世界最高水準に引き上げる重点投資」などを盛り込んだ「遠山プラン」を発表し、論議を呼んでいる。政府の意図がどこにあるのか、さらにこの政策の適否については、私学の側からもおおいに発言すべきであろう。しかしこのような政策が出てくるにはそれなりの背景があると思われる。
最近、といってもここ数10年の間、日本の大学の質の国際的位置については、それぞれの大学が努力し、成果を挙げている分野が少なくないにもかかわらず(たとえば1999年で自然科学系の学術論文生産数の上位一五位までに日本の大学は八校までが入っている)、全体的には芳しいとはいえない情報がひろまっているようだ。10年以上前から、日本の初等・中等教育の質や効率性は世界に冠たるものだが、高等教育は例外だというステレオタイプな評価が広く行われてきたが、この傾向は一向に変わっておらず、最近ではこの評価をさらに裏付けようとするような言論や調査結果が発表されているのは、日本の大学の評判にとってゆゆしきことである。
日本経済新聞によれば、日本企業が海外の大学や研究所に提供する研究費は最近5年間で倍増し、1999年度には1540億円に達しているのに、国内むけでは半分の730億円に過ぎず、海外から日本の大学や研究機関に入る研究費はたったの七億円だという。つまり日本の大手企業が「日本の大学との共同研究は文部科学省の手続きに時間がかかるうえ、成果もあがらない」として「国内の大学を見限りはじめた」象徴とも報道されている。事実、日本の代表的な大企業は、情報技術関連の研究拠点を北京大学などの研究者とネットワークを組むために北京に移すという(7月26日付け)。また、研究・教育の進歩には世界の優秀な人材の獲得が不可欠だが、「日本はこの人材争奪戦の蚊帳の外にいる」として、「日本の大学は海外から頭脳を集められないだけでなく、国内でも優秀な研究者や技術者の卵を育成できなくなったのでは、と日本企業は不信感を強めている」とも指摘されている(日経、七月二十五日付け)。
こうした日本企業の日本の大学不信をさらに裏付ける結果になっているのが、スイスの経営開発国際研究所(IMD)が毎年発表する『世界競争力白書』(World Competitiveness Yearbook(2001年度版))の調査結果である。IMDは、各国の有識者にその国の大学は経済競争の必要性にどこまで応えていると思うかというアンケート調査を行った。この設問に対して日本人の有識者からの回答は否定的なものが多く、49カ国中49位と最下位にランクされた。この結果は日本にも報道され、国内に広範なショックをもたらし、国会でも問題にされるとともに、特に産業界やマスメディアからの大学バッシングに発展した。
こういう問題が起きるときは、批判は大学や文科省や教育関係者だけに向けられる傾向がある。教育関係者が第一義的な責任を負うべき当事者であることは甘受するが、教育関係者のみを責めて自分ひとり正しいとする批判には納得がいかないものを感ぜざるをえない。そのような評価が出てくるのは、単に教育の側だけでなく、予算や資源、産業の問題との関係など、幾多の根深い原因があると考えられるからである。
たとえば日本の大学よりは外国の大学に資金を提供しているのは、日本の大企業であり、日本の大学教育は現代の競争社会の必要性を満たしていないとIMD調査に答えているのも、主として日本の大企業のエグゼクティブたちである。IMDでは世界中のトップおよびミドルのエグゼクティブにアンケートを送り、3678人の回答者の結果から各国の評価結果をはじき出してランキングした。それはしばしば誤解されているように、世界の識者による日本の大学評価ではなく、日本人による日本の大学評価なのである。このうち何人のどんな日本人が回答したのかは明らかではないが、49カ国中全体で4000人にも満たない全回答者数からみて、ごく一握りの日本人の回答から評価がはじき出されていることは間違いないであろう。つまりこの調査のデータの代表性や統計的根拠については、おおいに疑義の余地があるのである。
それにもかかわらず、いったん発表されれば、その評価結果はひとり歩きをしだし、マスメディアに取り上げられれば殆どの人は根拠を問うことなく信用してしまう傾向が強い。テレビに出て日本の大学が世界最低の順位とはショックだなどと発言している産業界の代表がいたが、実は日本人が自分で自分の国の大学評価を低める回答をした結果なのである。
こういう例が出てくると、産業界をはじめとしてすぐ教育関係者に批判や非難が集中する。しかし、カネは出さないがクチだけは出すというのでは、大学も学問も育たない。産業界が行うべきことは、日本の大学教育を最初から自虐的に否定してみせることではなく、日本の大学を長い目で育てていくという視点をもつことではないだろうか。いかにグローバリゼーションが進行しても、日本の企業がまず必要不可欠としているのは、日本の学校や大学で育成された人材のはずである。「青田買い」や企業の都合で大学教育を混乱させたり、大学には学生の選別だけをしてもらえばよいので、教育機能など期待しないなどといって、学生の在学中の学習や経験を評価しようとしない時代遅れの慣行を続けるのではなく、むしろ教育や研究でがんばっている大学や学生に財政的な援助を通じて、長い目で日本の教育と研究の進展に助力してくれることではないだろうか。そのほうが産業界にとって結果的に利益になるはずである。
ただいずれにしても日本人の経営者から日本の大学の一面に対して、極めて厳しい批判があることは明らかであろう。産業界の目からみれば、援助に値しないような大学だからこそ、外国の大学に研究を委託せざるを得ないというのが言い分であろう。教育関係者はこうした批判がなぜ起こるのか、その批判は的を射たものであるのか否か、ということについて、冷静に分析する必要がある。そしてこのような社会的批判を軽減するにはどうしたらよいかということを、主体的に提言し、実行していく責任がある。さもないと日本の大学の芳しからざる評判がひとり歩きし、内外に広まり、ひいては日本全体の評価にも響いてくることになりかねない。