アルカディア学報
公開研究会報告国立大学法人化の意味
大﨑氏の講演から私立大学のあり方を考える
大﨑 仁氏(IDE大学協会副会長)は文部省で高等教育局長・文化庁長官を、その後は国立大学財務・経営センター理事長を務められ、国立大学法人化のプロセスをもっとも政策に近い位置で見てこられたおひとりである。今回の私学高等教育研究所の公開研究会は、その大﨑氏に「国立大学法人化の意味」についてお話しいただき、今後の「私立大学」のあり方を考える上での合わせ鏡とすべく企図された。氏はまず前半で「法人(リーガルパーソン)」についての概念整理をした上で、「大学法人の類型」「国立大学法人化の背景」について説明された。後半では「国立大学法人制度」、特に国立大学法人の特徴となる「管理運営機構」や「目標管理(評価による管理)」について述べられた。
以下ではより具体的にその内容を紹介する。氏はまず法人となりうる対象として「社団」「財団」「行政組織」の3つをあげ、日本で最も古い歴史を有する慶應義塾大学が「財団法人」として法人化され、私立大学が制度的に公認された大学令においても財団法人であることを求められたことを、歴史的観点から指摘した。このことから、同じ法人といっても私立大学の法人化と国立大学の法人化には大きな違いが存在していることを述べられた。
次に、国際比較の観点から、大学法人の類型として、「英米型」(人の集団としてのCorporation・理事会を対象に法人化を行うタイプ)・「ヨーロッパ大陸型」(法人ではあるが国家機関性が強いもの)の二類型をあげたうえで、日本の私立大学は前者に近く、国立大学は後者に近いものであったことを指摘した。しかしながら、日本の国立大学の法人化は後者の法人類型が共通して持つ問題点の解決のために、運営の自主性・自律性を高めようとする従来の議論の延長線上で単純に考えられたものではない。実際には、英国のNPM(New Public Management)の影響を受けた「エージェンシー」概念から生み出された「独立行政法人」のあり方に強く規定される形で国立大学法人が生み出されたことが述べられた。すなわち、イギリスのサッチャー・メージャー政権下における、パブリックサービスの効率化のための手段として取り入れられた「エージェンシー」モデル(その第一号は「車検業務」を行う機関)が、日本の法律体系との不適合や各省の抵抗などの結果として、イギリスの経験からみるともっともふさわしくない研究・教育施設に当てはめられるといったおかしな結果になったということである。そしてさらに政治的な紆余曲折を経て国立大学へもそれを適用しようということになり、「どの程度」独立行政法人の枠組みを適用する・しないの綱引きの結果として、現在の国立大学法人が誕生する結果となったということである(この間の詳しい経緯については氏が現在『IDE―現代の高等教育』で連載中の論文を参照されたい)。
後半では以上の経緯を経て誕生した国立大学法人制度の特徴として、①運営の自主・自律性の強化、②学長への権限集中、③目標管理の3点をあげ、それぞれ説明が行われた。①の運営の自主・自律性の強化については、財務面での運営費交付金(一括交付金)の導入、人事面での非公務員化、組織面での中期目標・計画の範囲内での大学の裁量拡大などを挙げる一方で、財務については国の財源面での保証の弱体化、人事については教育公務員特例法の適用がなくなることによる教員組織の裏付けがなくなったこと、組織については、中期目標・計画の記載内容にかかわる部分において、新しい取り組みが行いにくくなっていることなどを指摘された。また、世界的にも類例のない②学長への権限集中と③目標管理については、まず前者において学長の権限の行使を法律的に抑制できる機関は学長選考会議以外になく、そこには独裁的な管理運営の危険性が可能性としてはありうることが指摘された。また後者については、中期目標・計画の大学原案を尊重するとしつつも、「何を」中期目標・計画として記載するのかについては、強く規制されており、その網羅的項目と細分化が運営の自主性・自律性の観点から問題が少なくないことが述べられた。また、国立大学法人評価委員会による目標達成度評価には、大学による恣意的な目標設定(あらかじめ低めの目標設定をする)という問題がある。このため大学評価・学位授与機構による教育研究水準・質の向上評価が行われる。このような評価が果たして可能であるかという点に氏は疑問を呈しつつも、前者のみの評価にこれを加えることは必要であろうとの立場を示された。
以上の他に、運営の自由度に関して、学生収容定員増の抑制、学費の標準化、収益事業の禁止、借入金・重要財産処分の制限など、「民間的経営手法」に手かせ・足かせがはめられることとなり、必ずしもその自主性・自律性の強化が単純に進められたわけではないことが強調された。なかでも、国による評価を通じた管理がミクロコントロールになることの危険性についての指摘は特に重要なものであった。
そして、ここにいたり、私立大学の今後のあり方について考える際の発想の根幹が示される。すなわち、公的存在として国立大学も私立大学も、教育機会の供給という点においては同様の立場にあるわけだが、国へのその回答の仕方(公的役割の果たし方)が違うという点である。このような政府による制約の程度とその一方での財政のあり方の違いの中で、その強みを生かした私立大学の今後の役割を考えていくことへの期待が表明され講演は閉じられた。
最後に、公開研究会の内容紹介という観点からは少しずれてしまうが、非常に強く印象に残った点について、触れてみたい。講演が終わってみてわかることに、氏の報告にはまったくと言っていいほど無駄がないということがある。講演を聞いているプロセスでは、時にこの話はやや冗長にすぎないかと思われる内容もすべて、結論へ向かうさまざまな流れの中で論理的に位置づけられており、大学の教壇に立つ身として、講義とはこうあるべきものだと感嘆させられるものであった。シンプルに構造化された「わかりやすい」講義は、学生自身の頭の中での再構築を必要としないが、知的な魅力もそれなりのものとなりかねない。氏の報告の中で提供された詳細かつ多様な知のパーツ群は、我々の頭の中での「学校法人」「国立大学法人」という概念・存在の再構築を要請・触発し、結果、参加者各人の今後の学校法人のあり方の多様な模索へと導くのである。このように知的な魅力にあふれた研究会であったことも併せて報告させていただき、以上を今回の公開研究会報告としたい。