アルカディア学報
日独学長会議
世代や時代で関心は変化 留学の新たな可能性の開拓を
5月17日から18日にかけて、第2回目の日独学長会議が開催された。すでに本紙に短報を行ったので、ここではもう少し補足しておくことにする。今回の学長会議で議論が集まったのは次の2点だった。第1はドイツ側が提起した問題で、かつての日本は最多の留学生をドイツに送ってきた国だったが、最近ではそれが目立って減少してきている、それはなぜかというトピックである。第2は日本側の提起したトピックで、ボローニャ・プロセスの実施によってドイツの大学はどう変化しようとしているのかという点であった。
ちなみに現在ヨーロッパ諸国では1999年のボローニャで開催された教育大臣会議の決議を受けて、ボローニャ・プロセスという名の改革が進行中である。その趣旨はあまりにもまちまちな各国の高等教育に、一定の共通性を持たせ、ヨーロッパ全体としての高等教育圏を構築しようとする試みである。もともと大学制度はどの国でも個性的で、しかもその個性を正面から主張することを誇りにしてきた。ところがグローバル化時代では、何らかの共通性を持たせない限り、国境を越えた学生・教員の移動が進まず、卒業者の移動に支障をきたす。さらにヨーロッパ統合という遠大な理想を達成するには、まずは「ヨーロッパ人」という意識を持った次世代を育てる必要がある。
こうした関心から、次の諸点でヨーロッパ圏内での共通性をつくり出す改革が開始された。学部段階を共通化させるために、3年間のバチェラー課程を設け、その上に2年間のマスター課程を設ける。その上の博士課程はいずれ議論することにして、まず3年課程と2年課程を共通化する。①学生がヨーロッパ圏内を移動しやすくするために、どこの大学も二学期制で統一化する。②国境を越えた単位履修を促進するため、統一された単位制度を設け、単位の相互認定を推進する、③次世代にヨーロッパ人という意識を育成する目的で、最低1年間はヨーロッパ圏内の他国での学習を推進する、などである。
ドイツではこれまで学部段階は4年制か5年制をとってきたが、実際問題として学生は7年か8年かけて修了するのが普通だった。4年の課程を7年もかけて修了するのは、確かに時間の無駄かもしれないが、その間に海外に留学したり、職業体験を積んだり、ボランティア活動をしたり、選挙運動員として政治にかかわったり、さまざまな経験を蓄積する時期と見られてきた。中には遊びに明け暮れする学生がいなかったわけではないが、企業側はむしろこうした社会体験の豊富な学生を歓迎してきた。その点、在学中に4年も5年も留年した卒業生は歓迎しない日本企業とは異なった感覚を持っている。ただ産業界の意見も完全に一致していたわけではなく、日本の企業は22歳、23歳の若い人材を確保して企業内で訓練できるのに、ドイツ企業は27歳、28歳の大卒者しか得られないのは不利だという声があったことも一面の事実である。
そのような環境の中で3年制のバチェラー課程を導入したわけだが、この新方式に対するドイツ側の評価は、今回の学長会議では大きく2つに分かれた。大きくいえば、理工系はこの制度を歓迎しているが、人文・社会科学系ではそうではない。3年間系統的に組織的に訓練するのはいいことだと評価する声もある反面、試験の相次ぐ詰め込み教育では、「教養」を身につける暇がないという意見が出された。
こうした意見対立は十分予想されることで、大学をすでに確定した知識を次世代に伝達する場と理解するか、それとも何事であれ、常に自立した判断力をもって見ようとする「批判的な精神」を育成する場と理解するかの対立である。例えば同じ物理学を教えるにしても、すでに確定した物理学上の知識を教えることを重視する教師もいるだろうし、物理学をベースにしながら、どれだけ批判的な精神が未知の世界を切り開いてきたか、その過程を重視する教師もいるだろう。ましてや人文科学・社会科学のような人間の自己理解を目指す分野では、既存の知識とは次々と発生する問題を解くための補助線に過ぎず、肝心なことは問題解決のための思考力、判断力を育てることであろう。
この2つの対立はわれわれ人間が、マニュアル化でき、累積加算のできる知識の世界と、いくら時間をかけたところで思いつかない、それでいてある瞬間に「はっと気づく知恵」という2つの世界に住んでいるからである。この問題は国境を越えた単位の認定問題にもつながる。国境を越えて学生が学習する時代になれば、各大学、各教師が共通した単位認定基準を持つ必要が出てくる。マニュアル化できる知識の領域では共通基準が作れるが、知恵とか「教養」といったものは、測定の次元を越えている。こうした論点は今回の日独学長会議でも浮上した。ドイツ側の参加者が、3年制バチェラー課程では知識の注入で終わってしまう、大切なのはゼミナールでの討論、意見交換であり、日独ともにゼミナールを行っているのだから、それをもっと重視すべきだと発言すると、会場から拍手があがった。
ここでは問題点を浮き立たせるために、マニュアル化できる知識、そうでない知識という2分法を使っているが、それを必要以上に誇張するのは危険である。理系も文系も知識の部分と知恵の部分の両方を含んでいる。知識に裏付けられない知恵は浅はかで、知恵に裏付けられない知識は味気ない。学部段階ではどちらをどの程度まで重視するかは、それぞれの専門領域に相違があるのだろうから、これから少しずつ合意を作り上げる必要があるのだろう。
もともとドイツ人のいう教養(Bildung)という言葉は翻訳し難い。教養と訳してしまうと、後からべたべた張り付けたものとなってしまう。しかしそれはその人の内側から湧き出てくる「その人らしさ」のようなものであろう。それを育てる王道はあるのかは、長年の課題である。
もう一つの論点である、なぜ日本からドイツへの留学が減ったのかをめぐっても、興味深い議論が交わされた。ドイツ側はすでに英語の講義が増え、ほとんどの教師は英語を使っているのだから、言語は障害にはならないと主張した。日本側からは、かつてのようにカント、ヘーゲル、ショーペンハウアーに関心を抱く若い世代は今や日本では消滅しかかっている。それに代わって、ドイツの環境政策、エネルギー政策、社会保障政策に関心を持つ若者は多く、さらにドイツの外交政策を注目する若者がいる。例えばイラク戦争の際、ドイツはフランスとともに、日本、イギリスとは異なった外交路線をとったが、その背景に関心を抱いた日本人は多い。古典哲学への関心は薄れたが、現代ドイツへの関心は高まっている。つまりある国に対する関心は、世代、時代とともに変化してゆく。ドイツは現在でもなおかつ、留学生を開拓できる余地を持っている。
こうした議論と関係して、正式議題ではなく、パーティーでの会話だったが、日本の漫画が話題となった。最近ではドイツの書店では、日本の漫画の翻訳が多く売られている。ドイツの青年はこの漫画を通じて日本を知り、日本文化に対する関心を強めているという。いまや源氏物語、万葉集の時代ではない。これは日本でカントの時代が終わったのと同じである。こうみてくると、日独間の交流も世代とともに変化してゆく。相互に留学生の減少を嘆くのではなく、新たな可能性を開拓する時代に入ったとみるべきであろう。