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アルカディア学報

No.398

「高等教育2.0」を考える 21世紀の生涯学習システムの模索(上)

飯吉 透(マサチューセッツ工科大学教育イノベーション・テクノロジー局シニア・ストラテジスト)

 大学は改革されて当たり前
 海の向こうから眺めていると、日本の高等教育界は、まさに「大学改革」の大合唱の渦中にあるように見える。「教育の質的向上」「大学の質保証」「国際化」「合理的・効率的な大学経営」「学生の確保」等々、確かに直面する課題は数え切れないほど山積している。日本の大学のアドミニストレーターや教職員の人たちと話す機会があると、誰もが異口同音に「今、日本の大学はどこも大変だ」と言う。
 ではアメリカの大学は安穏としているのか、というとそんなことはない。私の勤めているマサチューセッツ工科大学も、世界不況の煽りを受け、昨年度と今年度合わせて、大学全体で約108億円もの予算縮減を余儀なくされている。ちなみにマサチューセッツ工科大学の年間予算は、東京大学よりも多いが、それでもこの規模の予算縮減を達成するためには、大学の全ての部局が様々な改善に全力で取り組まなければならず、現在でもその懸命の努力は続けられている。そしてまるで「合い言葉」のように、「この苦難を糧としながら、我が大学の教育と研究の質をより高めよう」という言葉が、毎日キャンパスのあちこちから聞こえてくる。
 詰まるところ、世界のどこの大学においても、このような類の「大学改善」は日常茶飯事であり、それは地道な努力による「必要に迫られた」漸次的な改善の積み重ね、にしか過ぎない。だから、そのような努力が当たり前になっているアメリカの大学では、もはやそれを「大学改革」などと呼ぶこともない。
 到来した高等教育の大転換期
 現在、世界の高等教育に迫りつつあるのは、「百年に一度」あるいはそれよりも大きな「システムの抜本的な作り替えの必要性」だ。過去20年の間に、インターネットやマルチメディアなどの情報コミュニケーション技術、交通・物流システムなどの進歩により、社会構造やモノ・情報・知識の生産・流通のあり方は大きく変容し、より複雑・流動化した社会では、技術や知識の陳腐化は激しくなり、雇用は安定しない。トーマス・フリードマンの言うところの「フラットでホットな世界」である現代社会において、個々人が、知識的・技能的・職業的基盤を確保するために、10代後半から20代前半までの4年間を「壁に囲まれた」大学で過ごせば「高等教育は修了」というモデルは、機能しなくなりつつある。
 最近、日本のテレビ番組の中で、日本の超一流私立大学に通いながら、夜間は「卒業後の就職率100%」を誇る専門学校に通っている学生が取り上げられていた。本人いわく、「手に職をつけておかないと、就職できるかどうか不安」だからだそうである。この学生のように、これからの社会においては、良い大学のブランド名すら、求職時に「神通力」のようには働かないことに、多くの大学生が気づき始めている。しかし、そのような彼らですら、自分たちの多くが、「一生のうちに、何度も勤務先や職種を変わらなければならない世界で生活する」ということを、明確にイメージできてはいないだろう。そして、今の日本の大学の大半は、そのような人生を歩むことになるであろう彼らの将来に対し、責任を持って対応しようとは考えていないように見える。
 もはや既存の大学は不要か? 
 極論してしまえば、21世紀には、既存の形での「大学」は、もはや必要でなくなるのかもしれない。日本でもアメリカでも、町の小さな本屋が、街角から次々と姿を消しつつあるのは、それらが嗜好が多様化している人々のニーズに応えられなくなってきているからだ。その代わりに、「夜遅くまで営業している大書店」や「24時間利用でき、どんな本でも揃っていて、注文した翌日には配達もしてくれるオンライン書店」に人々は向かう。「本屋と大学を一緒にするな」と言われそうだが、大学の教育機関としての側面を考えれば、両方とも「知識や情報を売るサービスビジネスである」という点は、少なくとも共通している。「熾烈な過当競争時代」に入りつつある現在の日本の大学の多くが、「町の小さな本屋」と同じ運命を辿ることになっても、それは全く不思議なことではない。
 私が考える「高等教育2.0」とは、現在の大学の持っている機能を内包しつつ、大幅に機能が拡張された「新たな教育システム」だ。「高等教育1.0」である従来の大学が、あらかじめ用意し提供するカリキュラムや講義を、学生が受動的に「消化」し原則四年間で単位や学位を取得する「Supply-Push」型の教育システムであるのに対し、「高等教育2.0」は、個々人のニーズや状況に応じ、生涯のどの時点においても、必要な知識や技能を学ぶことができるような「Demand-Pull」型の教育システムだ。
 新たな高等教育システムの台頭
 そのような新たな教育システムの構築は、すでに始まってる。アメリカの19の州の州知事によって設立された「Western Governors University(WGU)」は、アクレディテーション機関に正式に認定された大学であるにもかかわらず、通常の大学のように自前の履修課程に合わせた講義を提供していない。その代わり同大学は、学生が十分な知識や技能を持ち合わせていることが試験やレポートで確認されれば、「学生が、どのような教材を使って、どのように学んだかに関係なく、評価基準に従って単位を認定し、必要な単位数が揃えば学位を授与する」という制度を採用している。学位取得にかかるコストは普通の私立大学の6分の1程度で、学士課程を最短2年間で修了可能なので、学生(特に社会人学生)が経済的・時間的に得られるメリットも大きい。WGUは、学生が学ぶための支援(例えば、教員やチューターによるカウンセリング)やオンライン図書館などの学習リソースなどを提供しているという点で、単なる能力や資格の検定機関ではなく、歴とした大学なのである。
 01年に始まったマサチューセッツ工科大学のオープンコースウェアに端を発し、今や世界中の100以上の大学が、数千に上る質の高い講義教材や講義ビデオをインターネット上で無料で公開している。これらはWGUの学生にとって、「学びの宝庫」である。このようなオープンな教育資産を活用し自助的に学ぶ学生を支援するために、WGUは、「24時間体制の学習サポートサービス」を提供している。どんな教材を使っていても、学んでいて分からないことがあれば、いつでもインターネット経由で、「チューター」と呼ばれる大学院レベルの教育を受けた補助教員が助けてくれるのだ。ほとんどの学生にとって、このようなシステムと「よく理解できない一方的な講義をするのに、授業開始時間を過ぎると教室に入れてくれないような教員のいる大学」のどちらが有り難いか、は自明であろう。
 繰り返すが、WGUは、アメリカの19の州の州知事によって設立された正式な大学であり、怪しげなベンチャー企業の手による「大学もどき」の機関ではない。そこには、時代のニーズを読み取る先見性がある。最近ホワイトハウスは、そのブログを通じて、アメリカ国民に、「あなたにとって、21世紀の教育とは何を意味しますか?」と問いかけ、同ブログではそれに対する人々の返答が紹介されている。日本の大学関係者の一人ひとりが、卑近な「大学改革」に翻弄される前に、この問いについて、改めて考えてみるべきではないかと思う。