アルカディア学報
「質の改革」と大学の自主性 性急さを排し長期的視野を
トップ・ダウン型改革のリスク
我が国の大学改革の近年の動向を振り返ったとき、非常に特徴的に見えることがある。欧米の改革モデルを掲げてのトップ・ダウン的なプロセスである。図式的に示せば「欧米の改革動向→中教審等の政府審議会→個別大学」という一方向的な改革のプロセスである。先進諸国に見られる「個別大学→中間組織(学長会議、大学協会、学術団体、専門的職能団体など)→政府(調査会等)」というボトム・アップの流れが少ない。個別的には優れた研究に基づく政策提言があっても、それを受け止める中間組織がないから散発的に終わり、それは政府審議会等の装置を通してしか影響力を持ちえない。もともと中央志向の強い日本社会の特質の現われと見ることも出来ようが、政府審議会等の運営の仕方にも、もっとボトム・アップの流れを活性化させるような工夫があってよいように思う。
トップ・ダウン型の改革は、改革モデルの普及は素早いが、個別大学における内発性が弱い結果として、大学内の自主的な基盤が弱く模倣的になりがちであり、継続的に発展させていく力に欠ける。しかし、外形的には改革モデルの普及が早いから、政府としては改革の制度化も行い易い。注意すべきことはトップ・ダウン型の素早い改革の制度化は、半面で制度の空洞化を招きやすいことである。戦後の大学改革の際に取り入れられた単位制度や課程制大学院などはその好例であろう。これらの改革が文字どおりトップ・ダウンで実施されたとき、日本の大学人の多くはこの新しい未経験な制度の意味すらよく理解していなかった。その結果が、これらの新制度の長期の空洞化である。以来半世紀を経たいま、ようやく単位制度や課程制大学院の「実質化」が改めて大きな改革課題として浮上してきた。
これらの「制度の空洞化」の例は、占領下という異常な状況の下での例外的な経験と見ることもできようが、今日の状況を見ても大学審議会、中教審等によって主導されてきた「教育改革」―シラバス、オフィスアワー、FDなど―は、それらの本来の精神がどこまで実現されているかと言えば、実態のほうは疑問が多いように見える。今進行中の改革課題―教育目的の明示、3つのポリシーの明確化、学習成果の重視などについても、それが新たな「空洞化」を生まないかという懸念は消えない。
大学という生き物は、その生命力の源泉としての「自主性」を不可欠としている。特に教育の「質の時代」には、改革の火種は、個別大学の中でまず点火されなければならない。この改革が広がりと力を持つためには、それが学長会議、大学団体、学術団体などの中間的組織で取り上げられ、まとめられ、練り上げられる必要がある。こうしたボトム・アップの動きを吸収し、全体的・長期的視野から改革の方向性を示すとともに、改革の推進を誘導するのが、中教審等によるトップ・ダウンの仕事であろう。大学教育の改革はボトム・アップとトップ・ダウンのバランスのとれたプロセスを経ることによってはじめて、実質を伴った進展を期待できるのだと思う。
改革プロセスのトップ・ダウン化
いま、中教審では昨年9月の諮問「中長期的な大学教育の在り方について」を受けて、全方向的に嘗てないような精力的な審議を展開している。大学分科会の中には、5つの部会が置かれ、その下に13のワーキンググループが設けられて、今日の大学行政の重要課題の殆どを同時・並行的にこなしていこうという体制のように見える。このような絨毯作戦的な審議が順調に進み、答申なり報告なりの形で改革の方向性が次々と示されるとすれば、日本の大学改革はトップ・ダウン的な流れが全面を覆う状況になるのではないだろうか。大学改革はいっそう「中教審待ち」になり、改革への大学の自主性、自発性は失われていくばかりではないかと懸念される。
昨年8月に出された大学分科会の「第二次報告」によれば、「本報告のうち、改善の提起に関するものについては、国において具体化に向けた取り組みが進むことを期待する」とし、答申を待つことなく、個々の提言を実施に移すものとしている。ここでも、ボトムからの改革論の熟成を待つことなく、中教審を改革推進の基地として、トップ・ダウン的に改革を進めたいという性急な意図が窺えるように思われる。
教育の「質」の時代の大学改革
ここ20年ほど、「グローバル化」への対応という大儀名分の下に、経済分野を中心とし、日本の社会の各分野で性急な改革が進められてきた。大学改革への政治・経済界からの要求も短期的に改革の成果を求める性急さが目立っていたが、その性急さの帰結として自ずと制度的な枠組みの問題よりも、より直接的に教育の中味に眼が向けられるようになった。それも教育へのインプットより教育のプロセスへ、プロセスよりアウトプットへ、更により直接的で目に見えるアウトカム(学習成果)へと関心は移ってきた。この流れは、経済界に見られる「成果主義」的な性急さと通ずるものがあるように思われてならない。英・米をはじめとするこのような動向を先進的な改革として受け止め、これをわが国の大学改革に導入しようとしたのが、中教審の平成20年末の答申「学士課程教育の構築に向けて」であった。
この答申の狙いは、ひとことで言えば、これまで外部からはなかなか窺い得なかった教育の中身の「可視化」だといえよう。教育の目的・目標や3つのポリシー(入学者選抜方針、カリキュラム編成方針、学位授与方針)の明示、学習成果を重視した評価などの提言がそれである。これは同時に「評価と競争」による質の向上のねらいもあろう。この答申の提言は、学士課程教育の建て直しのための教学マネジメントの在り方として理論的に明快であるとともに、示唆に富んでおり、この方向性を是とし、これに沿って改革を進めようと意図している大学は多いことと思う。しかしそれは700を超える大学の何割だろうか。これらの大学の対極には、多数の学習意欲を欠いた学生を抱え、教育目的に即した入学者選抜や学位授与の厳格化が学習の改善につながるとは考えられず、それは経営破綻への道としか見えない大学も多いはずである。
「学士課程教育の構築」の答申が出されて1年が過ぎた今日において、多くの大学が答申の提言を率直に受け止めることには躊躇を感じているようであり、認証評価機関の側でも、例えばアウトカム評価は未だ各大学で研究すべき段階だと認識しているようである。
大学改革の実質を伴った進展を期するためにはトップ・ダウンと併せて、ボトム・アップの力を俟たなければならない。教育の中身自体の改革が主流になっている今日ではなおさらのこと、大学の現場での理解と共感がなければ改革は実質化しない。その成否はまさにボトム・アップの動向に係っているといって良かろう。質の時代の大学改革の最重要の課題は、迂遠ではあっても「いかにして改革への大学の自主性・自発性を高めるか」にあるのではないだろうか。