アルカディア学報
学士課程教育の分野別質保証 学習成果とその評価の視点が肝要
はじめに:日本学術会議における検討
日本学術会議は、昨年5月に文部科学省の依頼を受け、「学士課程」答申に留意しながら、学士課程教育の分野別質保証の在り方について審議を進めている。11月23日、東京大学安田講堂において、これまでの審議状況を報告する公開シンポジウムが開催された。本稿は、同シンポジウムの内容等に基づき、検討されている質保証の枠組みの特徴と意義、そして疑問点について論じるものである。
英国をモデルとした「教育課程編成上の参照基準」
学術会議は、文科省から依頼された学位の水準の維持・向上など各分野の教育の質を保証する枠組みづくりの課題を「学士課程において一体学生は何を身に付けることが期待されるのか」という問いに対し、専門分野の教育という側面から一定の答えを与える「教育課程編成上の参照基準」を策定することとして受け止め、英国の高等教育質保証機構による「分野別ベンチマーク・ステートメント」をモデルとしたという。
学術会議の参照基準も、教育プログラム(学位課程)の設計・実施・評価に携わる者に役立ててもらうとともに、進学希望者、卒業生の雇用主等に、専門分野の学位の性質と基準に関する情報提供を行う役割を想定している。参照基準の構成要素は、学士課程で当該分野を学ぶ「すべての学生が身に付けるべき基本的な素養」「学習内容の例示」「学習方法の例示」であるとする。
日英両国間の大きな違いとして一見して分かるのは、英国では知識・能力・スキル等とベンチマーク基準を書き分けているが、日本では基準の設定は避け、それらを更に抽象化した当該分野を学ぶことの「本質的な意義」を表す「基本的な素養」を設定しようとしていることである。また、英国では分野別ベンチマーク・ステートメントの構成要素として位置付けられている学生の学習成果の「評価」(大学や課程に対する評価ではない)が、日本では構成要素とされていないことも、重要な差異である。
参照基準案の特徴と意義:自主的な取組の重視
学術会議の参照基準に関する資料は、中教審の学士課程答申によって指摘された「各分野の教育における最低限の共通性」の確保を図るものであるとしつつ、「各大学の自主性・自律性」を十分に尊重したものでなければならないと繰り返し強調している。
大学の自主性の強調自体の意義は評価できる。参照基準は、あくまで一つの「出発点」であって、各大学がそれぞれの教育理念や置かれた状況に応じて教育課程の編成に当たるべき、との認識も妥当である。
参照基準案への疑問:学習「成果」の視点の弱さと「評価」の欠如
しかし、学士課程で当該分野を学ぶ全ての学生が身に付けることを目指すべきものを「基本的な素養」と表現し、「学ぶことの本質的な意義」すなわち「○○学に固有な『世界の認識の仕方』及び、○○学を学ぶことを通して(あるいは○○学の世界認識の仕方を学ぶ者として)身に付けるべき『世界への関与の仕方』についての哲学とも言うべきもの」であると定義していることについては、疑問なしとしない。学問の「哲学」「意義」に偏り過ぎていて、各大学に対して各分野の「学習成果」に基づく学士課程の構築という具体的な変革を求める力になり得るのか疑問である。
「基本的な素養」は、「単なる学問上の知識や理解ということに留まるのではなく、人が生きていく上で重要な意味を持つものを、学びを通して身に付けていくという観点に立って同定される」とし、「個別の分野の専門的な知識や理解については、それ自体が実際の市民生活や職業生活で直接的な有用性を持つものもあれば、例えば、状況に応じて主体的に判断し、能動的に問題を解決する力など、普遍的な次元で有用性を持つものを形成することに、各分野固有の文脈(『世界の認識の仕方』並びに『世界への関与の仕方』)を通じて寄与するものもあると考えられる」と洞察している点は評価できる。しかし、これだけでは、用語や定義による懸念は去らない。
また、これと関連するが、英国の分野別ベンチマーク・ステートメントが知識・スキル等をいわばCan-doリストの形で学習の「成果」に焦点を当てているのに対し、日本は学習内容を例示するといい、学習の「対象」に焦点が分散しているかのように見受けられる。
学生の学習成果の「評価」を参照基準の構成要素としない理由として、学術会議の資料は、「英国の大学が行う学位の授与に係る評価であることから、現行の日本の学士課程教育の制度を前提とする限り、この項目は除外して考えてよいだろう」と説明するが、私には理解不能である。資料中「学習方法の例示」に関する説明で、「学習成果の評価方法の重要性」や「学習内容・学習方法・学習評価が密接な関係にあること」を指摘しておきながら、なぜ学習成果の「評価」を参照基準の構成要素としないのか。
大学の自主的な取組に委ねるべき具体的な評価法について、事細かな基準を設定すべきと主張しているのではない。英国と同様、あるいは異なるやり方でもよいから、例示や留意事項等は、示すことができるはずだし、示すべきであろう。なぜなら、教育課程の設計に当たっては、獲得すべき学習成果のうちの何をどの程度達成したか、評価する方法をあらかじめ検討しておくことが不可欠だからだ。授業を実施し、学生に学習をさせてから、評価法を決めるのは、「後出しジャンケン」と同じである。予めシラバスに成績評価の方法・基準を明記するよう求める流れは、こうした考え方による。あえて厳しい言い方をすれば、学習成果に基づく課程構築の考え方が何たるか、その本質を理解していないのではないか、という疑問すら生じる。こうした考え方を普及・徹底する役割を担うべき参照基準として適当とは言えない。
シンポジウムでは、聴衆の中の学生から本質を突いた問題提起がなされた(発言の要約として、不正確な点があれば、筆者の責任であり、予めお詫びしておく)。大学の自主性の美名の下に、評価基準なしで済まそうというのはいかがなものか。定量的な評価が容易でないことは分かるが、だからといって、きちんとした評価を行わなくていいということにはならない。各大学の自主性・自律性に委ねるべき事柄だからという消極的な言い回しに終始せず、新しい質保証の仕組みを作り出すんだという意気込みを感じる積極的な提言をして欲しかった。正直、舌を巻くほどの内容・論理性であり、私の価値判断では、このシンポジウムでベストの発言であった。
また、別の学生から、どんな基準で大学・企業・社会に評価されるのか、そこが気になる、という趣旨の発言もあった。これに対し、パネリストからは、学生が評価を気にして学習するというのは違和感がある、といった応答があった。私なりに意訳すれば、評価が後出しジャンケンでは困る、という真摯な問題提起に正面から答えるものとなっていなかったのは残念である。
おわりに:問われる実効性
学術会議においては、前述した質保証の枠組みのほか、教養教育・共通教育、大学と職業との接続についても、それぞれ分科会が設置され、検討が行われており、これらが統合されて最終報告書が取りまとめられる予定である(分野別の参照基準を実際に策定するのは、更にその後であり、合計28分野が3段階に分けて取り上げられる予定)。専門分野の質保証に教養教育のそれが継ぎ接ぎされるようなことにならないよう、学士課程教育としての一貫性が保たれるよう、願いたい。また、職業的レリバンスや習得水準の明示を求める方向性には大いに賛同するが、そのためには、学習成果の可視化とそれに基づく課程の再構築が必要であり、前述した参照基準では不十分ではないか、との感がますます強くなる。
多くの大学関係者の関心は、本稿が重視した学習者の学習成果の評価ではなく、認証評価等の大学評価にあろう。参照基準を利用する国や評価機関は、学術会議の資料が再三強調するように大学の自主性・自律性を尊重するとともに、学問からの視点が中心となる学術会議の参照基準の意義と限界に留意し、学習成果の視点から適切に対応する必要がある。大学や大学団体は、前述した学生の問題提起にもあったように、エクスキューズとしての自主性ではなく、積極性を持った自主的な取組により、学習成果に基づく学士課程教育の構築と学習成果の評価による質保証に実効性を持たせることが求められる。