アルカディア学報
ブラッドフォード大学の教訓(上)
1年前、2000年5月12日の『クロニクル・オブ・ハイヤー・エデュケーション』が、ブラッドフォード・カレッジの倒産を伝えている。1997年以降に閉鎖された4年制大学には、アイオワのウェストマー・ユニヴァーシティー(1997年)、テキサスのアンバサダー・ユニヴァーシティー(1997年)、ケンタッキーのスー・ベネット・カレッジ(1998年)、オクラホマのフィリップス・ユニヴァーシティー(1998年)、テキサスのユニヴァーシティー・オブ・セントラルテキサス(1999年)があるが、ことに200年も続いたこの伝統のある小規模なカレッジの倒産は、少なからざる教訓を与えてくれる。この記事を紹介しつつ、カレッジ倒産の原因について考えてみよう。
<ブラッドフォード――1803‐2000>
ブラッドフォード・カレッジは、1803年にブラッドフォード・アカデミーとして創立され、1836年に女学校となり、1932年にブラッドフォード・ジュニア・カレッジになった。1971年に、男女共学のブラッドフォード・カレッジに改組するとともに、最初の男子学生を受け入れて、バチェラーの学位を与えるプログラムを開始した。
ブラッドフォードは、絵のようなキャンパスをもち、緑の芝生、赤レンガの建物を木陰に包み込む樹齢100年以上のブナの木立、そして森の中に点在する多くの池に彩られていて、小さなカレッジの本質的な諸条件を備えていた。加えてボストンから35マイルという地の利にも恵まれていた。キャンパスの中心は、1870年に建築されたレンガと石積みでできた4階建てのマナーハウスであった。その入り口の左側には、カレッジの創設者たちの6フィートもある油絵がかかった優雅な応接室があり、かつてはそこに若い紳士たちがブラッドフォードの淑女たちを口説きにきていた。長年にわたって、これこそがブラッドフォードだった。
しかし、1999年11月に、その理事会は、閉学を決定しなければならなかった。そして、2000年5月20日に最後の卒業式が挙行された。その時点での在学生総数は424人、これまででもっとも在学生数が多かったのは1997年の550人だった。年間予算は1390万ドル(1ドル 120円として16億6800万円、以下同じ換算)、長期負債は2000万ドル(24億円)、資産は2300万ドル(27億6000万円)だった。
<赤字体質の原因――学生不足とマーケット・セグメンテーションの欠如>
リベラルアーツ・カレッジに在籍する学生たちの割合は、40年にわたって減少し続けている。連邦教育省の統計によると、1960年には、全大学生の50パーセントだったのが、2000年には、17パーセントにまで下がっていた。大半の学生が、より多くのコースを提供し、都会に設置されているより大きな機関を好むようになったからである。
そこで、大学経営専門家は、カレッジが生き残るためには、キャンパスの全員が明確な特色について合意し、そこに徹底的に集中するマーケッティングをすべきだという。
ブラッドフォードは、アーサー・レヴィーンが学長だった1982年から1989年の間には、こうした特色を持っていた。ブラッドフォードは、歴史、文学、哲学といった古典的な諸分野をキャリア準備の訓練に取り込んだ「応用リベラルアーツ」カリキュラムを打ち出して、全米に知られた。それでも、当時から、赤字だった。
レヴィーンのあとを継いで学長に就任したジョセフ・N・ショートは、赤字を埋めるために全力を傾注し、募財に力を注ぐとともに、カレッジの資産を規模拡大のために使った。貧困者救済機関オックスファム・アメリカ財団の理事だったショートは、就任の前に大学の学長を務めた経験はなく、募財での優れた能力のために雇われたのである。彼は、確かにその領域で成功を収めた。
彼が学長だった1989年から1998年までの間に、ブラッドフォードの資産は、およそ700万ドルから2300万ドルに増えた。1998年7月には、ブラッドフォードは、5年間におよぶ募財キャンペーンにより、1700万ドル(20億4000万円)集めた。ブラッドフォードが男女共学になったのは1971年だったが、浄財の大半は、花嫁学校だったころの育ちのよい令夫人たちの寄付によるものだった。それにもかかわらず、ブラッドフォードは、1989年以降も、毎年赤字経営だった。
ショート執行部は、学生数を増やすというレヴィーンにはできなかった成果も達成した。フルタイム学生の数は、ショートが学長だった間に41パーセント増加して、1987年の秋にはピークの550人に達した。ショートは、より多くの学生をひきつけるための戦略として、屋根、ボイラー、ペンキ塗り、空調、その他施設の改善に対する支出を最優先した。レヴィーンが「襤褸になってしまった上品さ」を持っていると表現したキャンパスを小奇麗にする修理のために、すくなくとも700万ドルが支出された。
しかしながら、激しい競争のなかで、ブラッドフォードは、十分な学生を獲得することができなかった。しかも、少なくとも最近の10年間は、明確にセグメント化されたマーケット戦略を立てなかった。ブラッドフォードは、文芸志向の学生たち、外国人学生たち、学力不足の学生たち、きめ細かな世話を求めて小さなカレッジにやってきた学生たちなど、さまざまな顧客を一緒くたに寄せ集めた。何かに特化して特徴を出そうとはしなかった。副学長で学生部長だったテリー・ウィリアムスは、「われわれは入学志願者に対してSATで何点取ったかは尋ねませんでした。面接試問も求めませんでした。どんな学生を引きつけようとするのかがはっきりしないままに、勧誘にでかけて、数を増やそうとしたのです」と述べている。
ウィリアムスによると、カレッジは、いくつかの特徴あるプログラムを持っていたが、それらが競争に負けることを心配して、積極的に売り込まなかった。例えば、ブラッドフォードは、「身体障害のある学生の勉学のための大規模なプログラム」を持っていたが、その点では、ニューイングランドではカリー・カレッジとランドマーク・カレッジにかなわなかった。「潜在能力があるが成績不良」と認められた学生たちに対するプログラムを実施していたが、ニューイングランドでは、サザンヴァーモント・カレッジのものの方がもっと有名だった。
ブラッドフォードは、花嫁学校だったときの名残で、堂々とした芸術施設を備えていた。ダンス・スタジオ、複数の音楽リサイタル室、美術作品展示場、陶芸窯、750席ある劇場、125席の小劇場、そして210席の講堂もある。この講堂は、1999年の夏に10万ドル(1200万円)をかけて新しい絨毯を敷き、音響設備を改善し、照明装置を改修したが、再開されてから3ヵ月後には、カレッジ閉鎖の発表のために用いられた。しかし、ブラッドフォードは、同じマサチューセッツ州内のエマソン・カレッジやハンプシャー・カレッジに敵わないことを懸念して、芸術プログラムを強調することさえしなかった。
ブラッドフォードは、毎年新しいプログラムを始めることによって、学生数の埋め合わせをしようとした。ブラッドフォードには、教員が35人しかいなかったのに、40ものメージャーを提供していた。それでは、各科目をきちんとすることは無理だったので、大学基準協会の審査員から批判を受けていた。
(本稿は、國學院大学学長の阿部美哉氏にご執筆いただいたものです)