アルカディア学報
ノーベル賞受賞者のゴッドファーザー
辣腕官僚没後100周年記念シンポジウムに参加して
フリートリヒ・アルトホーフの名を知る日本人はほとんどいない。母国ドイツでも、彼の名を知る人は限られている。1880年代から1907年にかけて活躍した文部官僚である。この稀代の辣腕官僚は、大蔵大臣の胸元にピストルを突きつけるようにして、多額の科学研究予算を強引に引き出した。それを将来性のある研究者に配り、その研究活動を支援した。優れた業績をあげながら、なかなか教授に採用されない者がいれば、大学側の反対を押し切って強引に教授として押し込んだ。
こうした支援を受けた研究者が、数年もすると相次いでノーベル賞を受賞していった。ノーベル賞の制定は、1901年のことだが、それ以降第一次世界大戦終結までの20年間に、ノーベル賞の3分の1は、ドイツ人科学者の手のなかに落ちた。そのため彼は「ノーベル賞受賞者のゴッドファーザー」と呼ばれた。
2008年10月20日は、このアルトホーフの没後100周年に当たる。それを記念して一つの国際シンポジウムがベルリンで開催された。会場はベルリン郊外のダーレムにあるフリッツ・ハーバー化学研究所の旧ヴィルシュテッター邸が選ばれた。ちなみにフリッツ・ハーバー(1918年度ノーベル化学賞受賞)もリヒアルト・ヴィルシュテッター(1915年度ノーベル化学賞受賞)もまたアルトホーフから一方ならぬ支援を受けた研究者であった。一世紀経って振り返ってみた時、いったい彼とは何者だったのか、なぜそれほど科学研究に肩入れをしたのか、彼の功罪をどう評価すべきか、それをもう一度議論しようというのが、この国際シンポジウムの狙いである。
アルトホーフがプロイセンの官僚(大学人事担当審議官、大学局長)だった1882年から1907年までの時期、自然科学・医学は大きな転換点を迎えた。科学研究は膨大な経費を要し、多数の研究支援者を必要とする巨大プロジェクトとなった。科学研究は研究者個人が自由になる自己資金、エネルギー、時間の枠を超え始めた。そのための資金を得るとしたら、国家財政からしかない。しかし当時のドイツは軍事力の強化、社会保障制度の充実など、次々と新たな課題を抱え、財源がいくらあっても足りなかった。ここにアルトホーフのような豪腕官僚の活躍が期待される背景があった。当時の大蔵大臣はアルトホーフのことを「ベルリン中でもっとも尊敬できる官僚」と形容した。なぜならば「彼ほどたくみに予算を引き出せる官僚はいない」からだといった。
しかし大きく見れば、その背後には当時のドイツという国の宿命が見えている。ようやく18713年国家統一を果たしたものの、他のヨーロッパ列強とは異なり、ドイツは植民地獲得競争に遅れをとっていた。遅れた国が列強と肩を並べるとしたら、国内に眠っている科学技術力に目をつけ、その発展に将来を賭けるしかない。最近の研究成果によると、アルトホーフ時代のドイツは、国庫から支出する科学研究費の額では、他国を大きく引き離していたという。
しかしその一方では彼は大学の教授人事に強引に干渉した。教授会の決定を幾度となく覆した。その度ごとに、大学人は怒った。だから彼を挟んで大学人は大きく二つに分裂した。「ドイツの学問を世界最高の水準まで引き上げた恩人」と評価する者もいれば、「ドイツの大学と学問の権威を地に落とした極悪人」という評価もある。彼の没後、彼の名が歴史から消えたのは、多くの大学人が彼のことを思い出したくなかったからであろう。
しかし、過去十数年間、アルトホーフを再評価しようとする機運が高まった。少なくとももっと公平な立場で、彼の人物像、彼の果たした時代的な役割を再吟味しようという機運である。再評価の具体的な成果はいくつかある。たとえば、アルトホーフの生まれ故郷である街(ニーダーラインのディンスラーケン市)では、彼の生家を博物館として整備し、アルトホーフゆかりの品々が展示されているという。さらには数年前フンボルト大学(旧ベルリン大学)の大学病院の一角に、彼の胸像が新たに立てられた。
このシャリテと呼ばれる大学病院は、ドイツの医学が飛躍的な発展を遂げた舞台として著名である。世界各地から若い医学研究者が集まった。日本からは森鴎外(1884年から1888年にかけて留学)をはじめ、多くの医学徒がここで学んだ。アルトホーフはこの医学研究のセンターを、世界最高水準にまで引き上げるために、文字通り大蔵大臣と果敢に戦い、多額の資金を獲得した。
またローベルト・コッホがツベルクリンの開発に成功したのもこの土地であり(1891年)、その時コッホのもとに留学していたのが、北里柴三郎であった。北里の才能を高く評価していたコッホは、完成間近となっていたツベルクリン療法を北里に伝えるため、切れかかっていた留学期間を、日本大使館に自ら乗り込み、延長を認めさせることに成功した。日本にツベルクリンが伝えられたのは、北里の留学期間が延長された結果であり、その背後にはコッホの尽力があった。
さらにまた現在、ベルリン郊外のダーレム地域にあるベルリン自由大学の一角には、ベルリン自由大学の歴史が展示されている。まずトップに掲げられているのが、ほかならぬアルトホーフの写真である。ベルリン自由大学とは、第二次世界大戦後に創設された歴史の新しい大学で、アルトホーフとは直接関係がない。しかしアルトホーフはこのダーレムの土地に、現代でいうサイエンス・パークを作る構想を抱いていた。このダーレム地域とは、アルトホーフの時代には、何もないただの原野だった。しかし現在ダーレム地域に行くと、そこには彼の構想したカイザー・ヴィルヘルム財団(現在はマックス・プランク財団と改称)の設立・運営する種々の研究所群が並び立っている。ダーレムをサイエンス・パークとしようとしたアルトホーフの構想は、今まさに実現されたといえよう。ベルリン自由大学がアルトホーフを顕彰しているのは、彼がこのダーレム地域開発の先駆者だったからである。
このカイザー・ヴィルヘルム財団もまたアルトホーフの構想力の所産だった。国家資金の限界を見抜いていたアルトホーフは、民間資金の導入を秘かに検討していた。当時のドイツの工業界は大学で開発された科学研究の成果から、多くの企業利益をあげていた。アルトホーフが狙ったのは、その利益の一部を科学研究に還元することであった。
しかし学界は概して企業の拠出する資金に対しては、消極的、懐疑的もしくは警戒的だった。産業界もまたけっして乗り気ではなかった。彼の企画はさまざまな壁にぶつかった。しかし彼は説得を続けた。そしてこの財団の基本計画書を机の上に残したまま、1908年10月20日この世を去った。この彼の企画書はやがて同僚によって発見され、皇帝の承認を得て、1911年に財団が創設された。この財団はカイザーという名称を冠しているため、皇帝の内帑金をもとに設立されたと誤解されやすいが、けっしてそうではない。あくまでも民間資金を集めるための機関である。
長年忘れられていたアルトホーフが再び脚光を浴びるに至った背景には、現代の学問、科学が直面している危機的状況がある。今回のシンポジウム参加者は一様に、今後科学研究はいかなる資金によって、支えられるべきかという点に強い関心を示した。「科学研究に必要なコストは、その成果から直接利益を得る企業が負担すればよい、何も公金を使う必要はない」、「何らの企業利益も生まない科学研究は支援する価値がない」、「役に立つ知識、そうでない知識は市場が選別する。市場から求められない研究分野が消滅するのは、当然の結果である」。こうした発想が現代の主流となろうとしている。
現代の科学研究が莫大な経費を要する事業となった以上、「誰が負担すべきか」という問題を避けて通ることはできない。この問題が重要な政策上の課題として浮上したのは、まさしくアルトホーフ時代からである。この時期から「大学管理」に代わる言葉として「大学政策」という言葉が成立した。「学術行政」に代わって「学術政策」という言葉が登場した。大学や学術はもはや管理行政の対象ではなく、政策の対象であることが自覚される段階に達した。
もともと学問とか科学研究は、煉瓦を一つ一つ積み上げてゆく作業である。一つ一つの煉瓦は目に見える利益を生まなくても、それがなければ、知識全体が積み上っていかない。基礎となる煉瓦が築かれて、それではじめて、利益につながる研究が成立する。知識の世界はこうした利益と直結しない無数の研究成果の上に成り立っている。しかも現代ではこういう主張を大学人自身がしない限り、主張する人がいなくなった。この事実のなかにこそ、現代の危機が潜んでいると見るべきであろう。