アルカディア学報
“私”へ重心移す大学―世界の高等教育「私学化」の展望
世界の高等教育の「私学化」とはどのような現象であろうか。2000年のOECDの統計によれば,高等教育機関のうち,私立機関に属する学生の比率は,韓国,フィリピン,日本,インドネシアで70%を越え,オランダ,ブラジルなどで60%以上となっている(このうちインドネシア,ポルトガルの私立機関は政府依存型)。この統計では,ついでアメリカ,メキシコ,ポーランドの順に私立大学の学生数比率が高くなっている(OECD, Education at a Glance, 2000 Edition)。
高等教育の私学化あるいはプライバタイゼーションをいうとき,まず前提とすべきなのは,「私学」あるいは「privateであること」とは何かという問いであろう。
高等教育機関の公立(public)と私立(private)の区別に関して,レヴィは高等教育機関の財源,管理,使命の三点に注目してそれが曖昧なものであることを指摘している(Private Education: Studies in Choice and Public Policy, Oxford University Press, 1986)。すなわち財源の面では,たとえば政府から私立機関に研究費が投入されることや私立機関の学生に政府から奨学金が与えられること,公立機関の学生が授業料を負担すること,あるいは私人や私法人が公立機関に寄付を行うことが公私の区別を単純ならざるものにしている。
また高等教育機関の管理の面では,ラテンアメリカの国立大学は財政的には大いに政府に依存しながら高い自律性を保つ強い傾向があるいっぽう,ベトナム,カンボジアなどの東南アジア諸国では,高等教育機関はすべて公立機関に分類され,かつ政府の強い管理下におかれている。また,冒頭に述べたように全学生数の70%以上を収容する韓国において,政府が主導して行う大学評価プログラムに国公立大学とならんで私立高等教育機関が一校の例外もなく参加して評価を受けていることからも,学生数シェアという量的な測定だけでは見えてこない質的な面での公私の影響力のバランスがあることが推察できる。我が国における国立大学の独立法人化の議論も,この管理の面における公私の別を複雑にする要素の一つであろう。
さらに高等教育の使命という要素についてみると,たとえばアメリカでは,カトリック教会が設立した大学において,キリスト教教育という,現代的な文脈における「私」の要素の強い機能の重要性が低下しており,むしろ個々の機関のなかで「公」の要素が拡大している経緯が観察される。またそれとは別に,たとえ私立の機関であっても大学が「公共性」を高く維持すべき存在であることは,我が国における私立学校法にも定められているとおりであり,反対に公立機関における教育の成果が私人である学生やその周囲の人々,将来の雇用者である私企業を益しないということはない。ことほどさように,高等教育機関の公共性と非公共性は入り乱れて明確な区分を困難にしている。世界の大学は,公私に分けられるというよりもむしろ全き公立から全き私立までのグラデーションの中に,その「私立度」ないし「公立度」によって段階的に分布していると考えた方がよいのかも知れない。
しかし,この財政,管理,使命の3点に関して,高等教育システム全体の特性が,一般に私立機関が顕著に持つ特性へと傾斜している形跡を跡づけることすらも不可能なのかといえば,実はそうではないように思われる。
まず,財源の問題に関しては,この10年間の大きな変化としてヨーロッパ各国の大学で,授業料無償の方針を廃し,学生から授業料を徴収するように政策が転換されてきたことに注目される。先に引用したOECDの同じ統計によれば,1997年の段階での調査の限りにおいて,授業料を徴収する機関に通う学生がいないのは,福祉国家政策で知られる北欧フィンランドとスウェーデンのわずか2国であるとされている。また同統計では,1990年から1996年までの6年間の,高等教育に対する私的財源からの資源投資と公的財源からの直接の資源投資の伸び率を各国別に提示している。これによると,たとえばオーストラリアでは私的財源が1.9倍になったのに対して公的財源の伸びは1.3倍にとどまっている。カナダでは公的財源の側には大きな変化はない一方で,私的財源は1.5倍に伸びている。翻ってヨーロッパに目を移すと,フランスやアイルランドなどで公的財源の伸びと私的財源の伸びが拮抗するいっぽう,たとえばハンガリーでは私的財源が2.4倍になったのに対して公的財源が0.6倍に減少していたり,あるいはイギリスにおいては公的財源の伸びが1.1倍であったのに対して私的財源が実に7.5倍にまでのびているという顕著な例がある。これらの私的財源の伸長は,財政面でのいわゆる私学化の傾向を示すものだと捉えてもよいのではないだろうか。
あるいは管理の面では,地方公共団体が設備を用意して学校法人が運営するという,わが国のいわゆる「公設民営」型の大学の出現は,まずそれ自体が公から私への財の委譲というきわめて単純な「プライバタイゼーション=私事化」の過程である。かつこの公設民営大学の例からは,従来通り地方自治体が公立大学を設置して運営するよりも,わざわざ法人を別に立てて私立大学として運営する方が有利であるということを示すことによって,社会的文脈の側が私立大学を受容しやすくなっているという,いわば環境のプライバタイゼーションを暗に示唆するものであるとも考えられる。これと似た例で,従来は州立大学であった機関が私立大学として州の管理から独立した例,あるいはより大きな自律性を求めて独立を希望している例は,ほかに少なくともアメリカにも見られる。
最後に大学の使命の点について,これまでその法政上の設置形態を問わず近代の大学が先験的に持っていると考えられてきた公共性という性格に,営利大学の成功によって疑問が投げかけられている。アルトバックはアメリカで成功している二つの営利大学を挙げて「その名になんと冠されていようとも,これらは実際には大学ではない。むしろある一定の市場に訴求するお仕着せのプログラムを用意した学位分配マシンである」と強い調子でその営為に対する疑念を呈しているが(Change: The magazine of Higher Education, November/ December 2000),仮に,現にアクレディテーションを受けていることなどに着目してこれら営利大学を私立大学の最左翼の機関として位置づけてみると,先に述べた世界の大学の公と私のグラデーションは,大きく「私」の方向へ重心を移動させることになるだろう。大学に営利を期待することは大学の使命の私化というべきであろうし,またこれらの大学はオンラインで授業を供給するためその影響力は地理的な制約を受けないのである。これら営利大学の隆盛もまた,世界の高等教育のプライバタイゼーションを見る上での一つの,そして極めて大きな要素であろう。
世界の高等教育機関を,その特性によって公と私に明確に分け,その比較的優勢を問うことは難しい。しかしこれら高等教育機関が,公立から私立に至るグラデーションのどこかに根を張りながら,全体としては屈光性をもつ植物のように私学の方向を指向しているということは指摘できるのではないのではないだろうか。
(本稿は、去る5月9日の公開研究会で講演された、大学評価・学位授与機構の森 利枝氏にご執筆いただいたものです)