アルカディア学報
迫られる私大の対応―強まる高等教育「私学化」の風
最近数年間に大学の設置形態にさまざまな変化が起こってきている。
国立大学では行政改革の一環として「独立行政法人」なるものへの移行が目指され、文部科学省の調査検討会議で制度設計の議論が行われており、秋には中間報告が出される見込みである。国立大学内部でも賛否両論あるが、はやくも移行後をにらんで統合・合併の動きや運営のための種々の革新を計画している大学も出てきている。その議論の核心はいかにして国立大学の既得権や利点を維持しながら行政改革や世間の効率化の要求にもこたえ、かつ法人化による自律性の利点を最大限に発揮できる制度にするかにあるようだ。言い換えれば民営化の可能性を阻止しながらも一種の政府のアウトソーシングと大学へのマネジメント原理の導入を図ろうとしているともみることが出来よう。
国立大学の独法化がおよそ民営化とはかけ離れた改変であるとしても、私大にとっては決して対岸の火事ではなく、現状の国私格差を保持しつつ、国が基本的には従来とかわらぬ国立への支援体制を変えずに私学に「自由競争」を強いる構造のもとで、いわば国営が民営を圧迫する結果になり得ることは、つとにわれわれが警告してきたところだ(2000年7月26日号以後の本欄および当研究所シリーズ2号[2000年11月]参照)。
ところでこうした設置形態の多様化は国立大学ばかりで起きているわけではない。公立大学は国立大学に追従して法人化することになるであろうし、文部科学省以外の省庁や地方自治体が資金ないしは土地を提供し私学が経営のノウハウを提供する、いわゆる第3セクター方式や「公設民営」という名の私立大学も現れつつあり、しかも今後も増設される可能性がある。法的には私立大学であっても、財政上ないし運営上はむしろ公立大学というほうが実態に近いというものもある。
海外に眼を向ければ、欧州諸国では国公立大学が従来の授業料無償政策から学費徴収政策へと転換する国が出てきているし、ロシア、東欧、中国などの社会主義諸国でも私立高等教育機関が生まれている。ラテンアメリカ諸国は、アジア諸国とならんで私学高等教育の占める比率が国公立部門を遙かに凌駕しつつある。とくにアジアでは、日本をはじめとして、韓国、フィリピン、台湾、香港、インドネシア、インド等で私学部門が圧倒的シェアーを占め、他方、中国、タイ、マレーシアにおいて大学の法人化が進んでいる。つまり一般的に言って、国公立部門の公費負担は限界に達し、かわって「公立の私学化」ないし私学部門の台頭、さらにいえば「公私の曖昧化」といった現象が顕著にみられるのである。
さらに海外の遠隔教育は情報通信技術の発展に伴って量質ともに目覚しい発展ぶりを示しているが、営利事業としての高等教育も生まれている。日本では正規の大学とは認められてはいないが、たとえばアメリカのフェニックス大学はインターネットによる遠隔授業で日本からも学生を集めている。マサチューセッツ工科大学(MIT)ではその授業の内容をインターネットで世界に無料で開放する計画という。学位を取得するためには正規の学生として在籍する必要はあるが、授業を受けるのは実質的にほとんど制度的障壁なしに誰にでも可能となるのである。世界的水準の大学がこうした形で、日本をも含めた国際高等教育市場に参入してくるようになるのも時間の問題であろう。
こうした傾向に対して、国立大学の現状維持や私学に対する優位を主張する側は、大学制度は国が全面的に支えるべきものであり、世界の高等教育は欧州をはじめ国公立が主体であると主張する。しかし同じ公立といってもアメリカの州立大学は実態としてはその財政や経営において日本の私大ときわめて近く、イギリスの大学は財政的には国立だが、制度的には私立に近い。有限な資源のもとで日本の国立大学のように税金丸抱えの大学形態はいずれの国でも維持しがたくなっているのである。
国立大学の法人化が経営や市場を無視できなくなった一種の「私学化」への接近であるとしたら、さらに公立とも私立とも区別のつきがたい「私立大学」が出現してきたり、インターネットを武器に世界に進出しつつある遠隔高等教育の発展といった傾向はいったい何を物語っているのだろうか。すくなくともこのことは大学というものの国公私といった設置形態の区分が次第に曖昧化ないしは重複化し、そうした設置形態そのものの在り方が問われるような時代が到来することの前触れかもしれないのである。
このような方向への流れを「私学化」(プライバタイゼーション)と名付けることが出来るとしたら、それは日本の私学高等教育にどのような影響をもたらすことになるのだろうか。それは一面で「私学の時代」の到来を意味するが、そのことが私大にとって有利な条件になるばかりとはかぎらない。
国立大学が法人化によって従来とは異なる「経営」原理を導入し、学生や資金確保の市場に積極的に乗り出してくれば、私大にとって強力な競争相手となるだろう。従来のような同一処遇で同一の法規によって統一されている国立大学においては、統合・合併は給与体系も建学の精神も異なる私学よりもはるかに迅速かつ効率的に進行する可能性がある。
日本の私学は歴史的に旧くから学校経営における経験やノウハウの蓄積を営々と重ねてきており、その点においてはは従来「親方日の丸」といわれる経営意識の希薄な国公立大学よりは遙かに経営に敏感な体質をもっていることは明らかであろう。しかし私学の場合、数年毎に職場を異動する国立大学職員とは異なって、殆どの職員は同一大学内での勤務経験しかもたず、同一大学に長く勤めていたことだけでは他の経験を持たないという欠点を補えるか否か未知数である。国立大学は容易なことでは変わらないが、いざとなると一斉に変革へと走り出すというのが、国立大学の勤務経験をもつ筆者の見解である。
国立大学の「法人化」や「公設民営」を大学の設置形態の在り方、とりわけ国立大学はなぜ「国立」なのかということが問われるものとするのならば、それは同時に私学とはなにか、国立との違いはどこにあるのか、学校法人の在り方は現状のままでよいのか、という問いにつながる。学生が1000校をこえる大学短大のなかで、人生のなかでたった1校の私学を選んで、国公立よりも高額な学費を負担して入学して来てくれるゆえんはなにか。ましてや今日は無料でいくらでも放送大学やインターネット大学から授業を聴くことができる時代においてである。
高等教育の「私学化」の風は、私学振興をますます必要不可欠とする私学部門への順風となるのか、それとも国公私が入り乱れて大学の質と個性をめぐっての国内・国際間の大学競争時代に導くことになるのだろうか。