アルカディア学報
大学リテラシー試論 大学・高等教育政策への認識と洞察 ―3―
職員は大学・高等教育政策の動きをよく知っていなければ勤まらない―。勤務の中でこのことに気付いた人は少なくないだろう。特に大学院の専攻新設や学部学科の新設、競争的資金(GP)の申請業務などにたずさわったことのある職員メンバーなら、骨身にしみて感じたことがあるはずである。
文部科学省や厚生労働省などへの度重なる書類・資料の提出と訂正、それに重なるヒアリング、大学に持ち帰って教員とともに行う協議、こういう経験の中でいやおうなく試されるのが、大学・高等教育政策の動向に対する知識と洞察である。突然ロー・スクールの申請業務を担当させられ、「大学院の審査とはいったいどういう専門性と根拠をもって行われるものなのか」と疑問を持ち、修士課程で、日本の大学院制度史を本格的に研究し始めた私学職員を知っている。教員に尋ねても疑問が絶えず、「研究課題が多すぎる」というのである。
ずいぶん昔のことだが、筆者が私学に勤務し始めたころ、教授会などで報告される行政当局と大学との交渉を聞いていて、「私学はずいぶん文部省に弱いのだな」と驚いていた。筆者のような国立大学出身の若い教員としては、私学は毅然として行政当局に対峙し、「窓口行政」など何のその、画一行政にしっかり対応するものと、素朴に思っていた。国立大学事務局は文部省と一体化しても仕方がない、だが私学は違うだろう、と一人決めしていたのである。だが、むしろ逆で、恐縮している様子に驚いた。何か大事なことがよくわかっていないのだ、と感じたことを思い出す。
もちろん、今では、規制緩和の時代とはいえ、許認可の獲得がいかに私学の死命を制するかも分かるようになった。「恐縮」にも理由がないわけではない。また逆に、大学が正当に要望していることが、実は行政当局自身も要望していることだ、といった「機微」も分かるようになってきた。だが当初は、ずいぶん疑問にも感じ、また「ふがいない」と思ったものである。
ところで、政策を見る、というのは実はかなり難しい作業である。
第1に、時間的スパンを広げて「観測」し続けなければならない。例えば評価についていうと、第三者機関による評価や認証評価機関による評価などについても、それらの発生・本質・特色等を知悉しておかなければ、対応しきれない。FDやSDといった新動向についても同様である。教員集団がこうしたことをよく知っている保証はない。
第2に、規制緩和動向の中で、大学・高等教育政策を担う主体が、実はかつてと比べものにならないほど複雑化し、多元化してきた。つまり、検討しておくべき資料そのものの範囲は文部科学省および審議会等が発出したウェブ情報や文書資料だけに限られない、という事態が起きている。
例えば、去る2007年9月に中央教育審議会大学分科会内の小委員会が発表した「学士課程教育の再構築に向けて(審議経過報告)」には、詳細な参考資料集が付けられている。そこには数々の統計資料と並んで、関連諸団体の大学意見が数多く収められている。団体名は、当の中教審や前身の大学審議会はもちろんのこと、厚生労働省、経済産業省、総務省科学技術総合会議、内閣府、日本労働研究機構、日本私立学校振興・共済事業団、財団法人大学基準協会、日本技術者教育認定機構、大学評価・学位授与機構、財団法人日本高等教育評価機構、日本経団連、経済同友会、OECD、さらには経済財政諮問会議、教育再生会議など、軽く十指に余る。現代の大学・高等教育政策をつかむには、こうした広がりをもって資料の収集と分析を行い、しかも続行していく必要がある。なかでも、大学審議会・中央教育審議会等の意見・答申については、過去10年間ぐらいにさかのぼって論点を整理し、変化があれば確かめておく必要があろう。
第3に、断っておきたいことがある。資料を収集し整理するといっても、目的は「国策の上意下達」を支えるためではない、という点である。政策の現在と今後を見通し、場合によってはそれを「利用」し、時には反論もしなければならない。大学の自立性と主体性を維持するためである。そのためには予測や判断が必要であろう。くりかえし「洞察」と述べているのはその意味である。
洞察という作業が求められるもう一つの理由は、行政指導の基礎にある法的な含意(インプリケーション)の正確な理解が、どうしても必要だからである。例えば、「FDの義務化」といわれるけれども、それは個々の教員に対して「義務」を負わせるものではない。「法人の、国に対する義務」と解するのがおそらく正しい。また「認証評価」という新評価が生まれたのではない。「認証評価機関」という機関群が生まれたという意味である。他方、FD理解・SD理解についていうと、最も求められているのは、各大学の個性に即した独自のFD理解、SD理解であって、画一的なプログラムの施行ではない。こういった微妙な、しかし実践上極めて重要な理解を共有しておく必要がある。そのためには職員の綿密な学習が求められる。言葉をかえると、大学のコンプライアンス(法令遵守)の基礎となる概念理解の正確さが(大学の「自衛」のためにも)求められている。
とはいえ、長期にわたる、総合的で多面的な政策理解のためには、職人的な個人技だけではとても足りない。各大学の内側に、大学問題や大学教育変革の方針を形成する独自の機関(インスティテューション)が必要になる。多くの国立大学法人が大学教育センター、教育実践センターの類を開設しているのは、IR(インスティテューショナル・リサーチ=大学教育・研究の組織的調査)と並んで、政策理解の必要があってのことに違いない。私学の中の自覚的な大学も、この作業を強化している。また、FD・SDに責任を持つ部局や教員ポストも、今後特設されていくことであろう。国は、それらの試みをこそ大いに助成して行くべきであろう。
以上、3回にわたって記した荒削りの試論は、文字通り職員能力形成のための「新人教育」のメドあるいは(本紙編集者の評に従えば)「職員教育のリベラル・アーツ論」とも言えようか。今後多くの専門家の方々が批判し発展させてくだされば幸いである。
今後10年続く少子時代を支えるのは、大学人総体の、特に職員の力である。その能力開発事業は必須のものになるだろうし、国によるサポートも、ますます重要なものになるに違いない。(おわり)