加盟大学専用サイト

アルカディア学報

No.308

韓国における人文学振興事業
-「人文韓国(Humanities Korea)」の戦略性-

私学高等教育研究所客員研究員 馬越徹(桜美林大学教授)

 年が改まったので昨年9月のことになるが、韓国の大学における「日本研究」の実情調査のため、約1週間、各大学の日本研究所(研究センター)を訪問した。その時、どこの大学に行っても、これまでの韓国の研究所には見られなかった「熱気」を感じたため、その理由を尋ねたところ、次のような実情が判明した。
 実は、私が各研究所を訪問した8月末に、韓国では人文学研究の振興を目的とする大規模プロジェクト(「人文韓国=Humanities Korea」事業:通称HK)の公募申請が締め切られ、申請書を出し終えたばかりの教授陣は、期待と不安の興奮状態が続いていたようである。つまり日本研究のようないわゆる「地域研究」も、この事業の重要分野のひとつに位置づけられていたため、多くの日本研究所がこれに応募した直後だったのである。

 1.なぜいま「人文学」の振興か
 近年のアジア諸国では、競争的資金配分によるCOE(優秀研究拠点)形成が盛んであり、中国の「211工程」、「985工程」はつとに有名であるが、韓国の「BK21(頭脳韓国21世紀事業)」も1999年に第1期7か年計画(1999―2005年)がスタートし、年間2500億ウォン(2000年の為替レートで約250億円)が投入された。当時、これは韓国学術史上、最大規模の研究助成として話題となり、69プロジェクト(韓国では「事業団」と称し、複数の大学が共同運営する場合もある)が選定されたのは記憶に新しい。
 このようなBK21がスタートする契機となったのは、韓国がOECDに加盟した直後に襲われたアジア金融危機(1997年末)の際、それに有効に対処できずIMFの支援を余儀なくされる屈辱を味わったことにあるらしい。グローバル化が進む21世紀の知識基盤社会を勝ち抜くには、「世界水準の研究拠点」を作る以外にないことを、誕生したばかりの金大中政権は痛感し、これまでに例を見ない研究助成を決断したといわれている。そのBK21は第一期事業を成功裏に終え、すでに第二期七か年計画(2006―2012年)に移行しているが、助成金額は年間2900億ウォン(為替レートの変更により、約345億円)に増大し、74大学(569事業団)が選定され、活発に事業を展開している。
 ただ第1期BKの事業団選定当時から、理・工・医系に偏っているとの批判が、人文・社会科学関係者からなされてきた。ところが第2期BKの事業団選定においても、569事業団のうち人文科学と社会科学を合わせても61事業団(10.7%)にとどまる結果となり、とりわけ人文科学(語文、歴史、哲学および韓国学等)は十数大学に過ぎなかった。こうした結果に対し、「BK事業は人文学を死滅させる」との強い批判が展開され、メディア(主として新聞)もこれに呼応するところとなり、盧武鉉政権(教育人的資源部)は、BK21事業とは別枠の人文学振興計画、すなわち「人文韓国(Humanities Korea)」事業を打ち出したのである。なお、社会科学についてはBK21で対応することとした。

 2.「人文韓国」事業の基本設計
 もともと人文学の研究は個人ベースで進められることが多く、理・工・医系に比べCOEのような拠点形成事業には馴染まない傾向にある。もちろん韓国の大学にも、かなりの数の人文系研究所(研究センター)が設置されており、研究が積み重ねられてきた。ところが韓国の大学の人文系研究所は、ほとんどの場合専任研究員が置かれておらず、関係学科の教授、副教授が兼任する形で細々と運営されてきた。
 このような現状を打破すべく、人文学の振興を目的とする「人文韓国(HK)」事業では、研究所にターゲットを絞って重点的に助成することとした。HK事業では、専任研究員を雇用する人件費を保証すると同時に、10年後の事業終了時には大学の自己努力で、専任研究員を大学の正規教員定員(定年保証付き雇用)に組み込むことを条件とする支援計画を発表したのである。このように研究所に専任教授・研究員をおくことを制度化する事業を設計した際、ベンチマークとして、欧米のいくつかの研究所とともに日本の京都大学人文科学研究所が含まれていたようである。
 この事業を統括する教育人的資源部傘下の韓国学術振興財団が発表した「人文韓国支援事業申請要綱」(2007・6)によれば、事業目的として「①研究所内の研究主体勢力を養成することを通じて人文学研究のインフラ構築と国際的水準の研究力量をつけさせること、②研究アジェンダ(主題)は学問的・社会的需要を反映した学際的なものであること、③世界的研究成果の普及を通じて知識基盤の付加価値を強固なものとすること」をあげ、研究アジェンダの大枠として、次のような項目を例示して募集を開始した。
●社会の人文的基礎に関する研究
●科学技術の発展と倫理
●韓国思想、歴史、文化研究
●東アジア研究
●世界各地域および国家全般に関する研究
 年間支援総額は200億ウォン(2007年末の為替レートで約24億円)、支援期間は10年間という長期計画である。ただし採択された研究所も、3年ごとに再申請を行い、実績評価に応じて助成額が再調整される仕組みとなっている。支援対象は、①人文学関係の研究所、②海外地域を研究対象とする研究所(日本研究所はこのカテゴリーに属する)の二種類とし、①に関しては、大型研究(年間予算額10~15億ウォン、初年度5~10研究所)と中型研究(年間予算額5~8億ウォン、初年度5~10研究所)に分けて募集する。
 応募に当たっては、研究人員に関して次のような条件がつけられた。大型研究の構成メンバーは、所長に加えて、3種類の研究員(①一般研究員:人件費を伴わない兼任の場合は人数自由)、②人件費を伴うHK研究教授およびHK研究員は計10人以上、③研究補助員:大学院生、学部生は人数自由)と行政職員2名以上、が条件とされた。中型研究の場合の申請条件は、人件費付の研究員が5名以上となっている以外は、大型研究の場合と同一であった。なお、HK研究教授とHK研究員の場合、同1校で博士学位を取得した者を50%以下に抑える条件をつけている点が注目される。

 3.韓国が目指す人文学振興―選定結果と展望
 審査は第1段階(予備審査:書類審査と面談)、第2段階(書類審査と面談)、第3段階(総合審査)を経て、昨年11月2日に最終結果が発表された。人文・大型研究は21大学から申請があり、次の5大学(採択率28.6%:国立3校、私立2校)が採択された。
●梨花女子大学梨花人文科学院
●全北大学全羅文化研究所
●釜山大学民族文化研究所
●ソウル大学人文学研究所
●成均館大学東アジア学術院
 人文・中型研究は、81大学から申請があり、次の10大学(採択率12.3%:国立3校、公立1校、私立6校)が採択された。
●金剛大学仏教文化研究所
●延世大学メディア・アート研究所
●翰林大学翰林科学院
●仁荷大学韓国学研究所
●釜山大学人文学研究所
●慶北大学嶺南文化研究所
●聖公会大学東アジア研究所
●江原大学人文科学研究所
●ソウル市立大学人文科学研究所
●順天大学智異山文化圏研究院
 海外地域を対象に「地域研究」を行う海外型研究には51大学から申請があり、次の3大学(採択率5.9%:私立3校)が採択された。
●漢陽大学亜細亜太平洋地域研究センター
●釜山外国語大学地中海研究所
●高麗大学日本学研究センター
 選考結果を見るとかなり激戦であり、私立大学優位の結果であるが、選ばれた研究所は、これまで一定の実績を上げてきていただけに、妥当なものと関係者には受け止められている。また、現地でインタビューして感じたことは、政府がHK事業をスタートさせたことにより、各大学の経営陣も「人文学」研究の重要性を再認識し、人文系研究所(センター)を大学の正規の機関として位置づけ、事業費を予算化するなどの措置を講じ始めている。これにHK事業による専任研究員に対する人件費助成というインセンティブが加わったことにより、大学院生の「人文学離れ」にも歯止めがかかるとの期待感も高まっている。
 日本でも21世紀COE事業と平行して人文・社会科学振興事業がプロジェクト中心に進行中であるが、韓国のHK事業の規模の大きさと戦略性は、注目に値するといえよう。