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アルカディア学報

No.307

ドイツの教授選考方式改革 大学の自治権拡大の意義

私学高等教育研究所客員研究員 潮木守一(桜美林大学大学院招聘教授)

 2006年2月、日独学長会議が開催され、筆者は私立大学の学長代理として出席した。正式会議の翌日、ごく少数のメンバーによる集中討議が行われたが、その席上、ドイツ側の学長が興味深い議論を提起した。ドイツの大学は、ごく少数の私立大学を除くとすべて国立大学で、16の州に置かれた文部省が管轄する国立機関である。大学の教授はすべて国家公務員で、なかでも正教授は終身職である。これまでドイツの大学の教授選考は大学と国家との両者が共同して行う方式がとられてきた。つまり日本の国立大学のように、教授選考は教授会の専決事項ではなかった。
 具体的にいうならば、新規の教授を採用する場合には、大学は3名の教授候補者を順位をつけて文部大臣のもとに提出する。その3名のなかから誰を選ぶかは文部大臣の権限とされてきた。文部大臣は大学側が提出するこの推薦順位に拘束されず、2位で推薦された者、あるいは3位で推薦された者を教授に選ぶことができた。さらにその上、文部大臣は大学からの推薦リストに記載されていない人物を教授に任命することもできた。あるいは推薦リストそのものを大学側に差し戻すこともできた。こうした規定は、ごく最近まで各州の高等教育法のなかに明記されていて、例えばバイエルン州の「高等教育人事法」(2006年5月23日施行)の4章18条6項には「教授の招聘は文部大臣が行う。文部大臣は推薦順位には拘束されない。文部大臣は推薦リストを差し戻すことができる」と規定されている。(http://www.stmwfk.bayern.de/downloads/hs_hochschulgesetz_hschpg_gvbl102006.pdf
 つまり日本とは対照的に、国の代表者としての文部大臣に大きな権限が与えられ、大学側にはごく限られた権限しか与えられてこなかった。おそらく教授会をもって教授選考の最終決定機関とする慣行に慣れてきた日本の国立大学教員からすれば、どうしてこういう方式が成立したのか疑問を抱くことであろう。かいつまんで説明するとこうなる。十九世紀に入るまでは教授選考は各大学の教授会が自分達だけで行っていた。それは大学の自治、学部の自治にゆだねられていた。ところがその結果何が生じたかというと、縁故人事、情実人事、賄賂人事であった。これがドイツの大学と学問を危機に陥れた。こうした危機感は大学の管理者である国家だけでなく、大学人の間でも登場し、それが教授選考方式の改革に結びついた。
 こうした苦い歴史的な体験の中から、国家だけに任せるのではなく、また教授会だけに任せるのでもなく、両者が共同しながら教授選考を行う方式が成立した。これは両者の共同作業であるとともに、緊張関係に充ちた作業だった。
 大学の権限を制限し、国家の権限を強化することを、明確な形で主張したのは、1810年のベルリン大学創設に係わったヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767~1835)であった。彼はアカデミーの会員は会員相互の選考に任せるとしても、教授の選考を大学側に任せるべきではないと主張した。彼は教授の選考権を教授会から、国家(具体的には貴族高級官僚)のもとに吸い上げた。彼の眼前では縁故人事、情実人事、賄賂人事が横行していた。彼は教授会の選考権を認めることはできなかった。
 その結果、教授選考に国側と大学側とがともに関与する方式が成立した。しかし容易に想像できるように、この方式はまかり間違えば双方の意見対立を顕在化させる危険性を多く抱えていた。事実これまで国家と大学とは教授人事をめぐって、しばしば鋭く対立した。その事例はすでに「ドイツの大学」(講談社学術文庫)、「ドイツ近代科学を支えた官僚」(中公新書E―Book)に書いたので、ここでは省略する。
 ところが最近のドイツではこの教授選考方式に新たな動きが現れだした。つまりいくつかの州で教授選考の最終決定権を文部大臣ではなく、個々の大学に置く方式に改正されるようになった。2005年5月ドイツの高等教育政策、学術科学政策面で大きな影響力をもつ学術審議会(Wissenschaftsrat)は「教授招聘方式の策定に関する提言」を行った。次第に熾烈化する国際競争のなかで、優れた教授の獲得競争に勝ち抜くには、今まで以上に、個々の大学(具体的には学長を中心とする大学管理機関)の先見性と自主性と責任が必要だと説いた。つまり大学はもはや文部省直轄の機関ではなく、独立した経営体として責任をもって教授人事を行い、大学の威信と活性化を目指して教授陣の充実に大学の運命をかけるべきだと主張した。つまりそれだけ大学の自治を強化し、大学の責任を重くする必要があるというのが、この審議会の提言の骨子である。
 こうした動向を受けて、バーデン・ヴュルテンブルク州(2005年1月1日の大学法)、ハンブルク州(2003年5月27日の大学法)、ノルトライン・ヴェストファーレン州(2006年10月31日の大学自由法)、ザールラント州(2004年六6月23日の大学法)では、教授招聘の最終責任者を文部大臣としてきたものを、個々の大学の学長に変更した。これまでは文部大臣が最終選考を行ってきたが、文部大臣に代わって個々の大学の学長が最終選考を行うこととなった。その結果、学長とそれを支える大学管理機関には大きな権限が与えられるとともに、重い責任が課せられることとなった。これまでの経緯から考えれば、大学は200年前の自治権を回復したということにもなる。言いかえればフンボルト以前の状態に戻ったことになる。
 冒頭に紹介した日独学長会議での席上、ドイツ側の学長は、こうした近年の改革動向を踏まえながら、なぜフンボルトは教授会に教授選考権を認めようとしなかったのか、その意味を考える必要があるとの問題提起を行った。この発言を聞いて筆者は驚いた。フンボルトなどいう名前は、この日本では過去の人物として、忘れ去られたと思っていた。ところがドイツでは依然として、フンボルトは意味を持った人物として生きている。日本では「フンボルト理念」など、過去の遺物で時代遅れの最たるものとして、一顧さえされないのに、ドイツの大学人の間では依然として、考えるべき課題を突きつけている人物として語られている。
 この学長の問題提起の背後には、以上のような最近の教授選考方式の基本的な変化があった。この変化はいわばドイツの大学がふたたびフンボルト以前の仕組みに戻ることである。まかり間違えば再び大学がギルド化して、縁故人事、情実人事、賄賂人事に堕落する危険性を抱え込むことである。こうした危険性を回避しながら、いまやドイツの大学は自らの権限と責任のもとに教授人事を行わなければならなくなった。この権限と責任がいかに重いかは、かつてのドイツの大学が陥った閉鎖性という苦い歴史的な経験を見据えない限り、見極めることはできない。いまやフンボルトが200年前に提起した課題が、この現代の大学に課せられたのである。大学は、今まで以上の重さをもって大学自らの力で、この課題に立ち向かわなければならなくなった。
 こうした制度のもとでまず問われるのは、3名の候補者を選び出す学部教授会の見識である。それとともに問われるのは、この3名のうち、どの候補者を選ぶかを決定する学長を中心とする大学管理機関の見識である。つまり大学それ自身が持っている見識が、今まで以上にその大学の運命を決することとなった。
 それではこうした見識はいかにして作られるのであろうか。それは真空のなかでは育たない。過去のさまざまな経験から大学人自身が学ぶしかない。かつて教授達だけで教授を選んでいた時、いかなる堕落が生じたのか、その具体的な生々しい歴史的事実を思い起こし、その経験から学ぶことである。それは決して過去のことではなく、現在でも将来でも十分起こりうることを認識しない限り、大学と学問の転落を免れることはできない。過去から学ばない者は、未来によって復讐される。(詳細は近刊予定の拙著「歴史としての大学(仮題)」(東信堂)を参考にしていただきたい)