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アルカディア学報

No.298

ポスト近代大学と評価 多様化しグローバル化する大学

川口 昭彦((独)大学評価・学位授与機構理事)

 「近代大学」の始まりといわれるベルリン大学(現在のフンボルト大学)は、当時プロイセンの教育長官であったヴィルヘルム・フォン・フンボルトの理念に基づいて創られた。フンボルト理念には、いくつかの特徴があるが、「研究を通じた教育」が最も重要な点になる。大学教授は、学生を教えるだけではなく、研究も行っている。だから、「大学は教育と研究が一体化した組織である」という表現では、フンボルト理念を十分には説明したことにはならない。この説明は、教える側としての大学教授の職務だけに着目したものだ。しかし、フンボルト理念では、教授ばかりでなく、学生にも研究に参加することに重要な意義を求めている。すなわち、研究を進める過程を通じて教育をするという発想である。
 フンボルト理念に基づく20世紀前半の近代大学は、少数精鋭のエリート養成を前提としていた。しかしながら、大学拡張政策によって、わが国のみならず欧米諸国は、20世紀後半から大学教育の量的拡大期に突入した。日本の大学教育は、アメリカの社会学者マーチン・トロウのいう「マス」の段階に移行したといえる。大学・短期大学への進学率は、1960年頃には10%程度だったが、拡大期・停滞期を経て、2007年には53.7%に達した。言葉を換えれば、大学は「大衆化」したわけである。
 マーチン・トロウが提唱した高等教育の発展段階説によると、50%という進学率が、「マス」から「ユニバーサル」への高等教育の段階移行の指標とされている。この仮説に従えば、わが国の大学教育は、「ユニバーサル」の段階に移行したことになる。
 この移行は、単なる量的な変化を意味するのではなく、大学教育システム全体の質的あるいは構造的変化をもたらさざるを得ない。1980年頃までの大学改革は、「エリート」から「マス」への段階移行によって求められる構造改革の努力であったといえよう。1990年代になると、「マス」から「ユニバーサル」への段階移行に対する対応が必要になってきた。すなわち、大学教育全体の構造の柔軟化、流動化を積極的に推進することが求められるようになり、大学の「多様化」につながっていったのである。
 このような経緯から、大学は、急速に大衆化・多様化した。「多様化」という言葉には、多くの意味が含まれており、「大学の教育をどうするのか」という問題を考える時に、社会のニーズ、高等学校の教育、学生のニーズ、さらには大学生の質や学習歴なども多様化していることを念頭にいれておく必要がある。大学の多様化と大衆化とは無関係ではない。大衆化によって、大学に対するニーズは多様化することになった。大学の多様化は、大学の機能分化ともいえる。大学の機能として、①最先端の研究・教育拠点、②総合的な教養教育、③高度な専門職業人の養成、④健全で幅広い市民としての職業教育、⑤特定の専門教育、⑥地域の生涯学習機会の拠点、⑦社会貢献機能などが考えられる。もちろん、一つの大学が複数の機能をもっていることは十分あり得ることだが、大学は、どのような機能を目指した教育研究活動を推進するかという戦略をもっていなければならない。また、多様な機能の中で、どれに重点を置くかという点が、各大学の個性や特色となる。
 大学が多様化・大衆化することによって、専門的な第三者機関が、それぞれの大学の機能に応じて、そこで行われている教育研究の質を評価し、それを保証する必要性が生まれてきた。「消費者保護」という視点が求められるようになったが、従来、大学が評価されていなかったわけではない。
 大学の「偏差値」は、巷では話題となっていた。「大学を偏差値で語るのは問題である」と大学関係者は叫び続けてきた。しかし、複数の大学が同じような教育目的・目標を掲げていたとすると、偏差値がそれぞれの大学を比較するための指標となり得ることも事実である。また、「某一流企業に多数の学生が就職している」(いわゆる就職ランキング)という事実も大学のレベルを判断するための情報でもあった。大学にとっては、偏差値は入口の情報であり、就職ランキングは出口の情報である。最近まで、大学が入口と出口の情報で語られていたわけで、この状況は、大学にとっても、社会にとっても、大変不幸な事態であったと思う。目的・目標が異なる大学を、入学試験の難易度の指標である偏差値で比較することは無意味なことなのだ。
 重要なことは、「大学在学中に、どのような、そしてどれだけの付加価値が得られるか」という視点である。これこそが、正に、それぞれの大学における教育研究の質であり、この情報を的確に社会に提供することが、第三者評価機関の責務である。大学が多様化すればするほど、専門的な、かつ公正な第三者の視点が重要となる。
 第三者による質の評価は、大学自身にとっても不可欠で、自らが掲げている目的・目標を達成するための活動が、機能しているのか、改善点はないのかということを自ら評価するとともに、第三者にそれを検証してもらうことが必要となる。
 評価を考える時に、もう一点忘れてはならないことは、大学教育のグローバル化である。グローバル化、知識経済の浸透のなかで、人々が国境を越えて知的な職業に就くことが日常的になり、また、このような労働への資格を与える教育・訓練サービスそのものが、国際的に有益な貿易産品となりつつある。
 中世以来、大学や高等教育機関においては、学生や教員が国境を越えて移動し、国際的な学術活動をすることは決して珍しいことではなかった。1980年代に入ると社会の情報化が大きく進み、知識や情報の産業的価値が強く意識されるようになった。その中で、それ以前までどちらかといえば公共性と関連して語られることが多かった高等教育や訓練が、貿易産品ともなりうる知識サービス産業としてとらえられるようになってきたわけである。
 2005年現在、日本は12万人以上の留学生を受け入れ、そのうち、約9万5000人が大学・短期大学・高等専門学校、大学院で学んでいる。これらの入学者の中に、偽の学位や卒業証書を使って応募してきた学生が、含まれていないとは限らない。
 また逆に、日本からは現在、少なくとも8万人前後の学生が、何らかの海外留学をしているといわれている。2006年現在、日本には大学744校、短期大学469校、高等専門学校64校が存在するほか、専門課程をおく専修学校も2996校存在する。日本から、「●●大学(学校)を卒業しました」という証明書を送っても、外国から見て、果たしてその大学や高等教育機関が本当に存在するのか、その学位や資格の価値はどれくらいなのか、ということは、簡単にはわからない状態にあると考えざるを得ない。
 もし、何らかの形で実態を伴わなかったり、極端に質の低い教育しか与えられないで社会的に通用しない学位を取得してしまったりしたら、最終的に困るのは、その学生たちである。政府や高等教育機関は、自分たちの学生がこのような被害に遭うことに手をこまねいて見ているわけにはいかないし、また、自国、あるいは自らの大学・学校が出した学位が、世界の中でこうした偽学位と同等の扱いを受けないよう、信用を高めていく必要がある。このためには、大学自身が発信する情報のみならず第三者評価機関が、その大学をどのように評価しているかという情報も非常に重要となる。
 21世紀の知識社会は、エリート養成を目的とした「近代大学」からユニバーサル化した「ポスト近代大学」への脱皮を必要としている。「ポスト近代大学」の発展にとって、評価は、最も重要なかつ不可欠な事業であるといえる。