アルカディア学報
教育基本法の改正と大学の理念 諸制度の建て直しを
《市場化の中の教育基本法改正》
昨年の12月15日、国会の会期末ぎりぎりに新しい教育基本法が成立した。同法の改正をめぐっては、教育の目標としての「国を愛する態度」や教育行政にからむ「不当な支配」など、戦後永らく論争の種とされてきた問題ばかりがジャーナリズムを賑わした半面、この改正で大学の目的が新たに規定されたことについては、あまり話題にも取り上げられなかったようだ。これまで、「大学の目的」については学校教育法に定められているだけで、教育基本法には何の規定もなかった。今回、憲法に準ずるとされる教育基本法の第七条に、これが明確に規定されたことは、大学の理念が混沌とし、方向感覚が失われている今、大学の今後に極めて大きな意味を持つ。
しかし、教育基本法の改正が安倍新内閣の最重要な政治課題とされたわりには、第七条が新設されたことの意味が多くの国民に理解されているとは言えないのではないだろうか。時代とともに変化する大学について、「大学とは何か」を問うことは大変に難しく、かつ大学の大衆化、ユニバーサル化が進むにつれ、ますます難問化しつつある。それにもかかわらず、あくまで大学という制度に固有の理念を維持していこうとするのか。あるいは入学資格、教育年限など一定の制度の枠組みだけがあって、大学制度全体の固有の理念はなく、内容的には「何でもあり」になるのか。日本の高等教育は、そのどちらの方向に進むのか。今は一つの岐路に立っているように思われる。
これまで大学の多様化が進む中で、制度の目的・使命の明確化を模索して、多様化した実態を分類し、それぞれの特質を明確にするべく「種別化」「類型化」「構造化」、そして最近では平成17年の中央教育審議会答申「我が国の高等教育の将来像」で提言されている「機能別分化」など、いくつかの考え方をめぐって議論が重ねられてきたが、いまだにその収斂する先は見えてこず、大学は理念論を放置して、市場化、サービス化の色合いを濃くする一方である。理念の衰弱したこのような時期に、株式会社立大学の全国展開という問題が提起されているというタイミングの良さと、一方で、教育基本法を改正して大学の理念を改めて掲げたというチグハグは、いったいどう理解したらよいのだろうか。今、仮に株式会社立の営利大学が全国に展開し始めたとすれば、新しい教育基本法第七条は最初から空文化することになるだろう。教育基本法の改正は、理念論を取り戻し、大学の進むべき方向を見定める契機としなければならない。
《大学の理念喪失》
戦後、大学は学校教育法第五十二条に掲げられた目的規定を支えとして、「学術の中心」であるという理念を主張し、守ってきたが、実態の方は、この理念を飛び越えて多様性の幅を広げてきた。大学の理念を守るためには入学者の水準を維持すべきだ、資格試験を課すべきだとする適格者主義の議論がある一方、臨時教育審議会以来の自由化論の影響もあって、若者の進学意欲に対して圧力釜のように蓋をすべきではないという声が漸次大勢となってきていた。これに決着をつけたのが、平成9年の大学審議会答申「平成12年度以降の高等教育の将来構想について」であった。この答申では、「このような高等教育への進学意欲の高まりは(中略)今後とも継続するものと考えられる。今後の高等教育の方向を考えるに当たっては、このような高等教育機関に学びたいという意欲の高まりを積極的に受け止めていくことを基本とする必要がある」として、これまでの高等教育計画の考え方を変更し、計画的な規模の目標設定を廃止したのである。18歳人口の長期的な減少期に入って、学生の資質や志望のいっそうの多様化が予想される中でのこの方針選択は、大学制度の理念と実態との乖離や、大学としての質の維持をどのように考えてのことだったのだろうか。いずれにせよ、理念と実態との乖離が繕い得ない程度に広がっていくであろうことは自明のこととなったのである。
実態との乖離による大学理念の曖昧化は、大学のアイデンティティの喪失、大学改革論議の共通土台の崩壊、大学コミュニティとしての意見集約の困難など、大学の内発的・自主的な革新を阻害する、さまざまな要因を生んでいるように思われる。このような状況は大学人の自信喪失、無力感を生み、それが大学の社会への発信力の不足、外部社会からの要求への過剰反応となり、さらに教育改革のマニュアル依存、個性なき多様化などと言われるような大学の行動にも繋がっているのではないだろうか。
一方で、今はまさに大学改革の時代だと言われる。特に国立大学の法人化を契機として、大学の変化は驚くほどである。新しい教育システムの開発、産学の共同、地域社会との連携、国際的共同など、これまで、とかく腰の重かった改革の課題が急速に進展をみている。しかし、それが本当に大学全体の内部からの自主的な熱意から生まれ、個性と自信とに支えられたものであるのか。一枚皮の下には、どこか受身の弱々しさが潜んでいるように思えてならない。
《教育基本法改正が意味するもの》
新しい教育基本法では、第七条の第一項で、大学は「学術の中心」であるという理念を改めて確認し、この理念を根底として「高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するもの」であると規定した。学術の本質は真理の探究であり、学術の理念を根底とした教育は、単なる「需要に応ずるサービスの提供」ではない。
第二項では、さらに、大学について「自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」としているが、これも「学術の中心」の理念から当然に導かれることである。したがって、「学術の中心」であるということは、「知の拠点として自主性を持って社会から一定の距離を保ちつつ、社会の安定と発展に寄与する」ことを意味するものであって、大学が全面的に「社会化」されることは理念の崩壊と大学の衰弱を意味する。
グローバルに進行しつつある市場化、サービス化の流れに沿わざるを得ない面があることは否定できないにしても、「学術の中心」としての大学の本質は、すべてを需要と供給の関係に還元する市場原理主義の考えとは相容れることはない。「大学教育はサービス業」「学生満足度経営」などという発想には、研究重視から教育重視への転換をリードするという意義はあるものの、大学の理念からする一定の留保が必要である。教育基本法の改正は、まさにそのことを確認し、明確に宣言したのである。このような画期的な教育基本法の改正を受けて今やるべきことは、この大学の理念を根底に置いて、大学をめぐる諸制度を整えていくことである。
ここ10年ほどは、市場を前面に押し出した規制改革によって、認可制度、評価制度、学校法人制度をはじめ、大学の諸々の制度が経済の発想を優先し、大学の理念を視野の外に置いた改革の洗礼を受けてきた。結果として大学は理念なき競争の世界に投げ入れられており、その向かう方向は明らかに理念の崩壊である。改正教育基本法の「学術の中心」という言葉の意味を十分に吟味し、その精神を生かして大学の諸制度の建て直しを図ることが、今、最も求められることであろう。