アルカディア学報
ファンディング・システムの確立 急がれるその体系化
最近の我が国の高等教育財政では3つの傾向が目立つ。その1つは全体として公費負担を抑制し、私費負担を増加させる傾向である。2番目は公費による負担に関して、大学など機関を対象とする援助を抑え、学生や教員など個人を対象とする援助を増やす傾向である。3番目は機関援助も一定の基準に基づく一律配分から、政策方針に基づく傾斜配分に移行する傾向である。 それは一口で言って、高等教育機関に対する財源保障や経営支援から、政府が推進する高等教育政策の手段へと、高等教育財政がその役割を転換しつつあるということである。高等教育財政がこうした方向を目指すようになったのは、高等教育の大衆化や普遍化、経済のグローバル化、財政の逼迫など、それなりの理由があってのことであろう。しかし、なお腑に落ちないところがある。以下、それについて述べたい。
まず、公費負担を抑制し、私費負担を増加させる政策は欧州諸国でも見られるが、その理由は高等教育の拡大に財政が対応しきれないことに求められている。しかし我が国の高等教育は、もともと私費負担に依存する割合が際立って大きく、公費負担の割合は著しく小さい。したがって公費負担を増大させる必要こそあれ、私費負担を増大させる理由はないと言わねばならない。
次に、機関援助から個人援助への転換は、主に市場原理の導入により、大学や教員、学生などに競争を促すことが理由とされている。しかし我が国の高等教育は戦前から既に市場化されていたし、今日においても欧米諸国とは比較にならないほど市場化されている。したがって改めて擬似市場化を図らねばならないという理由は乏しい。
むろん学生奨学金の拡充や競争的研究資金などの整備が必要であるが、それはあくまでも機関援助への追加資金として要請されるのであって、機関援助の振り替えとしてではない。学校教育に対して財政支出がなされるのは、学校教育が外部経済性を有するだけでなく、継続性・安定性を必要とするためである。 会社の寿命は平均30年だと言われるが、学校の寿命がそれと同じであってよいはずはない。学校は企業体ではなく、共同体であり、共同体の特徴は継続性と安定性にある。学校教育の継続性と安定性を確保するためには、基幹的経費に対する機関援助が不可欠とされるのである。
最後に、一律配分から傾斜配分への転換は、数多い大学を広く一律に補助したり、経営困難に陥った大学を救済するといった支援方式から脱却し、国・公・私立を問わず、優秀と認められる教育と研究を重点的に育成していくという支援方式に切り替えるというものである。
これについては若干立ち入って検討をする必要がある。というのも大学設置基準が大綱化し、設置認可が準則主義に変わってから後は、公的資金の傾斜配分が高等教育政策の重要な手段となってきているからである。
周知のように、高等教育に対する公的資金の配分基準としては、設置者別、分野別、機能別の3つがある。従来は設置者別の配分が基本とされてきたが、近年は分野別及び機能別の配分が増えてきた。この両者は、国立、公立、私立という設置者別の配分とは違い、国・公・私立の区分を問わずに分野別、機能別に配分される点で共通している。
公的支出の配分が設置者別から分野別・機能別に移行する傾向が出てきた背景には、高等教育の大衆化に伴って設置者別の役割分担が不明確になってきたことがある。そして国立大学が国の行政組織からはずされ、法人化したことがこれに拍車をかけている。中身だけでなく、形態も私立に接近してきたからである。
放送大学、産業医科大学、ものつくり大学など実質は国立でありながら、形態は学校法人立というところもある。そうしたところから設置者別の財政措置を改めるべきだという考え方が、しだいに力を得てきている。私学関係者の中には国立と私立のイコール・フッティング論を主張する向きさえある。
「競争条件の均等化」という主張は、もっともなようにも思えるが、ことはそれほど単純ではない。というのも、何がイコール・フッティングかは必ずしも明らかではないからである。設置者別の役割分担が不明確になってきているにしても、まったく同じとまでは言い切れないし、学校法人と国立大学法人とでは、なお経営の自由に差がある。
そのうえ、国立間、公立間、私立間であっても決してすべての大学の競争条件が均等なわけではなく、歴史や伝統、立地条件などの諸条件が大きく違っている。学校経営だけでなく、企業経営であっても、イコール・フッティングなどということは口で言われることはあっても実際に存在したためしはない。
そうしたことから、せめてフェア・フッティングをという要求がなされることもある。これはより現実に即した妥当な意見であるが、具体的にどうなれば“フェア”と言えるのかは必ずしも明らかではない。
分野別の配分が行われるようになったのは、主に社会的要請に対応する人材供給の必要からである。社会的な人材需要への対応は、いわゆる46答申(昭和46年の中央教育審議会答申)から1970年代の高等教育計画において強く意識された政策課題であった。分野別配分は、それをより緩和された形で部分的に復活させたものと言うこともできよう。
この分野別配分は、医療や法曹など特定専門職養成の分野に特化するものであるが、規制緩和という政府の基本方針と矛盾するところもあり、高等教育が市場原理に基づくだけでは不十分であることを示している。逆に見れば、分野別基準に基づく配分は大学側の自主性・自律性を歪める危険性をはらんでいることにもなる。
更に、機能別基準に基づく配分は、大学の「個性化・多様化」を目指す文部科学省が最も重視するところである。これもまた46答申以来、懸案となっている課題の解決を目指すものであるが、上から大学の種別化・類型化を図るのではなく、自由な選択を通じて実現させようとしているところが以前とは異なっている。
この政策には、もっともなところもあるが、難点は多くの大学が、いわゆる研究大学を志向する結果を招くことである。それは研究大学が社会的評価と予算配分のいずれにおいても、職業大学、教養大学、成人大学、地域大学などより恵まれた状況に置かれる以上、当然であろう。 改めて述べるまでもなく、研究を評価された大学は、それによって優秀な学生を吸引できるから教育も効率的に行われるようになり、教育評価も高まる。研究・教育の両面で評価されたということになれば、それが質の高い大学の証となる。その結果、学生も集まるし、外部資金も手に入れやすくなるというお墨付き効果が生まれる。
文部科学省は、そうした事態を避けるために今後、教育重視の予算配分をすることを表明しているが、それが実現する可能性は乏しい。現に機能別予算配分の圧倒的大部分は研究機能を基準としているし、研究大学に配分されている。これを教育や学生サービスなどの機能を優位にする方向に転換することは極めて困難と言わねばならない。
というのも、近年諸経費が軒並み削減される中で飛躍的に増大するなど、科学技術予算が際立って優遇されているのは、それがグローバル化に直面している産業界への補助金という特異な性格を帯びた経費だからである。したがって高等教育に対する支援といった単純な性格の経費が、それと同じように増大する可能性は小さいと見るべきであろう。
分野別あるいは機能別の傾斜配分は、公的資金の支出先について選択と集中を意図するものであり、計画的思考に基づく施策である。それは自由化、規制緩和という基本政策に悖ると言われなければならない。傾斜配分は個性化・多様化を目指すとはいうものの、結果的には画一化と硬直化を招くことになりかねない。
このように、大学だけで744校を数える今日、一口に大学と言ってもその内実は極めて多様化しており、とても同日には語れない。にもかかわらず、大学の役割分担の明確化という政策課題はなかなか実現しない。大衆化に対応して公的支出の配分基準が多様化していることだけは確かであるが、それは従来からある配分基準に新しく導入された配分基準が重なっているにとどまる。
それゆえ、複数の配分基準による公的支出を整理し、体系化することが現在緊急の課題となっている。高等教育に対する公的支出を基幹的部分と競争的部分に分けるとして、両者をどのような割合にすべきか。設置者別、分野別、機能別の基準に基づく配分にどのような比重を持たせるべきか。それらが競合あるいは抵触する場合には優先順位をどのようにすべきか。などがそれである。
急がれるべきは高等教育に対する公的ファンディングの体系化であり、公的ファンディング・システムの形成である。