アルカディア学報
認証評価はどこへ行くか
基本は自己点検評価
4つの認証評価機関が出揃い、ようやく本番の評価活動が始まった。平成3年に、大学設置基準の改正によって自己点検評価が制度化されて以来、既に十数年が経ったが、その間にこの大学の評価制度はかなり複雑な変遷を辿ってきた。特に政府の規制改革政策による影響を強く受け、設置認可制度を中核とした大学の質保証システムに大きな変革が加えられたことと関連して、この評価制度は当初の考えとはかなり違った方向に進んできたように思う。そのような経緯があった故か、認証評価の本質的な性格については不明確な点もあり、評価当事者や大学関係者の間でも理解にかなりのズレがあるようである。
性急に発足した新しい制度でもあるし、今後、実施と並行した継続的な改善が必要となるだろうが、本質論抜きに個別の改善を積み重ねていくと、大学評価システムとしての本筋を見失うことになるのではないかと懸念される。遅ればせながら、もう一度、本質論をという気持ちで、2、3の気付いた点を述べてみたい。
■認証評価と自己点検評価の関係
学校教育法では、第69条の3の第1項で自己点検評価の実施義務を定め、続いて、同第2項で認証評価を受ける義務を定めている。法律の上では、自己点検評価と認証評価は、それぞれ別個の評価活動であり、両者の繋がりはない。ところが、実際の認証評価の方法は、周知のように、対象大学が実施した自己点検評価の結果を分析して評価することとされている。いわば間接的な評価方法であり、認証評価機関が大学に立ち入って直接調査し、点検するという考え方とは異なる。法律の上では政府の監督を受けている機関による評価として、大学に対してかなり権力的な色彩を持つが、実際の評価方法としては、間接的な評価の方式をとることで、自主性を尊重されるべき大学に相応しい形になっていると言える。米国のアクレディテーションをモデルとしたこの方式が、わが国だけでなく、ヨーロッパ、アジアを含めた、ほとんど世界的な標準となりつつあるのも理由のあることである。
しかし、1つの評価作業が、大学の自己点検評価でもあり、同時に認証評価の一環でもあるという二重の性格を持つことは、認証評価の基準のあり方に難しい問題を提起する。自己点検評価としては、評価者である大学自身の自主性と個性を生かす基準でなければならない。一方、認証評価としては、認証基準への対応と「教育研究等の総合的な状況」を評価するための独自の基準が必要である。どのようにして、この両者のバランスをとるか。これは、認証評価の本質をどう理解するかに係ってくることである。
■認証評価と行政の関係
認証評価の本質について、まず確認したいことは、わが国の第三者評価としては、当初から非権力的なシステムが志向されてきたことである。臨教審以来の議論でも、多くの関係者が、米国型のアクレディテーションをモデルとした、大学コミュニティーの自主性による民間的なシステムを想定していたし、平成10年の大学審答申「二十一世紀の大学像」でも、「第三者評価を行う主体としては、ピアー・レビューの観点からは、大学団体、学協会、大学基準協会等の大学における教育研究活動の質的向上を目指す自主的団体が考えられる」としていた。それが、平成14年の中教審答申「大学の質の保証に係る新たなシステムの構築について」によって、にわかに様相が変わる。第三者評価機関に国の認証制度が導入されたことである。政府は、認証基準等を通じて第三者評価のあり方に関与する権限を得たわけであり、権限が与えられた以上、第三者評価の実施について責任を負わなければならない。そのような体制の下で、認証評価機関の定める評価基準や評価方法に、自己点検評価としての大学の自主性と個性を生かす十分な柔軟性が保たれるかどうか、懸念なしとしない。
もう1つの懸念要因は、前記の中教審答申が、事前規制型から事後チェック型へという国全体の行政システムの動きを踏まえて、「国の事前規制である設置認可制度を見直し、(中略)国の関与は謙抑的としつつ、設置後も含めて官民のシステム全体で大学の質を保証していく必要がある」としている点である。
設置認可は、法的な基準である大学設置基準の充足状況を審査して行うが、これは大学としての法的な地位に関わる行政の権力的な行為である。設置後の基準維持の状況を評価することも、その結果が文部科学省に報告され、違法状態に対する行政の段階的是正措置に結びつくとなれば、それは権力的な実質を持たざるを得ない。そうなれば、ピアーによるボランタリーな評価活動が持ちうる評価者と被評価者との関係―大学の自主性の理念と大学コミュニティーにおける共感と共生の精神を根底とした関係―は崩壊せざるを得ない。第三者評価に期待されることは、教育内容・方法、学生指導など、教育の内容面にも踏み込んだ定性的な評価であり、客観性を求められる行政による権力的評価にはなじまない領域の評価である。その意味で認証評価を、設置認可後のフォロー・アップの仕組みと位置付けることは、第三者評価の重要な機能を損なう危険がある。この点については、平成17年9月28日付第2204号の「アルカディア学報」217で既に述べているので重複は避けたい。
「質保証の新しいシステム」を提言した中教審答申は、総合規制改革会議の第一次答申を受け止めたものであるが、この第一次答申では、現状は「厳しい事前審査を行う一方で、事後的な監視点検が機能していない状況」であるとし、「大学の設置等に関する規制を緩和する一方で、継続的な第三者による評価認証(アクレディテーション)制度の導入などの監視体制を整備する必要がある」としている。そのうえで、「評価認証の結果、法令違反等の実態が明らかになった場合には、文部科学大臣による是正措置を講じることができることとすべきである」としている。規制改革の考え方では、認証評価は権力的な監視システムの一環なのである。
さらに、この第一次答申では、第三者評価機関は「評価認証サービスを提供することを競い合う環境を整えるため、株式会社も含めて設立できることとし、特定の機関の独占としない」ともしている。営利性とも権力性とも縁のない、「ピアー・レビューとボランタリズム」を基本とした大学評価の理念に対する理解を、この答申の中に見出すことはできそうにない。認証評価制度がこの答申の筋書きに沿って生まれた以上、これがあらぬ方向に変質することがないとは言い切れないだろう。
■認証評価の2つの方向
まだ未成熟な認証評価システムが、今後どのような方向に進んで行くのか。これには2つの道があると思う。一つは、大学設置後の監視機関として、行政と一体となった働きをすることである。これはこれで、その性格、役割はすっきりとする。しかし、大学人同士が、片や大学の監視人となって、設置基準違反などの違法状態をこと細かく摘発して回るという図は想像したくない。また、このような仕組みが大学の世界に定着するとも思えない。
もう1つの道は、大学の自律的作業である自己点検評価を分析して、その適切性、誠実性を評価するという方向である。その目的は、自己点検評価が適切に行われ、自己改善に繋がるように支援し、社会に対しては大学の誠実性と公共性を保証することである。大学に立ち入って直接調査・点検することは本旨ではない。したがって、教育、研究、組織、その他個々の基準項目を細部にわたって調査・点検することよりも、それらを総合し、全体的な視野で評価することが重要になろう。このことは、認証評価が教育研究等の「総合的な状況について」評価するものとされていることとも整合するのではないだろうか。
大学評価の基本は、自己点検評価であるということは、大学審でも中教審でも確認されてきたことである。大事なことは、認証評価の発展が自己点検評価を飲み込んでしまうのではなく、それを育てる方向に向かうことだと思う。