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アルカディア学報

No.248

英国の授業料・奨学金制度の動向
問われる改革の具体化

研究員 小林 雅之 (東京大学大学総合教育研究センター助教授)

 文部科学省の先導的大学改革推進委託事業「諸外国における奨学制度に関する調査研究及び奨学金事業の社会的効果に関する調査研究」を今年に入って実施することになり、2月末から3月にかけてアメリカ、オーストラリア、イギリスとあわただしく3か国を訪問調査してきた。今回の調査では、文部科学省の関係者や調査検討委員会の委員の方々はもとより、とりわけ(独)日本学生支援機構や各国の日本大使館の関係者に多大なご協力をいただいた。この場を借りてあらためて感謝の意を表したい。
 3か国を回って感じたことは、授業料と奨学金に関する改革がめまぐるしい勢いで進行しているということ。それが大きな社会的な問題となっていることである。例えばイギリスでは、今年度から各大学が授業料を自由に設定できるようになった。専攻別も可能である。しかし約九割の大学は、法定最高授業料額の3000ポンド(約63万円)に設定した。これまでの授業料は1200ポンド(約25万円)であったが、親の所得によって無償から最高額まで授業料の額が変化していた。したがって3000ポンドの授業料は極めて大幅な値上げで、教育の機会均等に大きな影響を与えるのではないかと政治的にも大きな問題となり、党首討論でも取り上げられるほどであった。
 各大学は大幅に授業料を値上げできる代わりに、大学独自給付奨学金を設定しなければならないこととされた。したがって学生が実際に支払わなければならない純授業料(定価授業料から給付奨学金を減じた額)は、無償から3000ポンドまで学生によって大幅に変わることになった。
 この奨学金の受給基準は大学独自に設定できる。しかし実際には、新設された政府系の組織である教育機会局(Office of Fair Access)との協定が必要とされる。これは、大学に授業料や奨学金の決定を完全に委ねてしまうと、大学があまり大学独自給付奨学金を出さないだろうとの恐れから制定されたものである。教育機会局長のサー・マーティン(元マンチェスター大学学長)は、このように私たちにインタビューで語ってくれた。彼はさらに、大学と政府の政治的な妥協として教育機会局が設置された経緯を詳細に語ってくれた。これについてはイギリスの政治と高等教育の関連の一断面を見るようで興味深かった。
 問題は、極端に言えば、イギリスでは学生一人ひとりが異なる純授業料を支払うという政策が進行していることである。同じく調査で訪れたロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの学生支援担当者によれば、同大学は著名な経済学者が多いだけに、彼らを委員とした委員会では、家計所得だけでなく、家族の状況などの要因を考慮した複雑な計算式によって大学独自給付奨学金の額を決定することにした。しかし、現在のところ、同大学では志願者の家計所得などの計算式に必要なデータが把握できないため、実際に学生が志願してからでないと個々の学生の純授業料がいくらになるか決定できないということであった。
 このことは、志願者から見れば、実際に同大学に志願してからでないと自分がいくら授業料を支払うのかわからないということを意味する。もっとも、実際の授業料はすべてローンで肩代わりされ、学生は卒業後に所得に応じてローンを返済することになっている。この新しいシステムが学生の大学選択にどのような影響をもたらすのか。インタビューした政府関係者、大学関係者、研究者ともに、学生が入学してくる九月にならないと誰もわからないと言っていたことが印象的であった。
 なお、一部の大学では、こうした複雑さ・不透明さを避けるために、全学生に一律の大学独自給付奨学金(例えば1000ポンド(約21万円))を出すとしている。しかし、全学生に一律に1000ポンドの給付奨学金を出すということは、実際の純授業料は2000ポンド(約42万円)であり、定価授業料2000ポンドと同等ということになる。
 それでは、なぜ大学側はこのような複雑なことをしているのか。一律の給付奨学金を出すとしている大学の関係者にインタビューしたわけではないので決定的なことは言えないが、アメリカで広く普及している高授業料・高奨学金政策の考え方から、次のような理由が考えられる。
 大学教育を経済学的な視点から商品として見ると、商品の内容について消費者(購買者)は完全には熟知していないという特徴が見られる。受験生は大学教育で何が提供されるのか、偏差値は熟知していても、教育内容や教授についてはあまり情報を持っていないのが普通であろう。
 商品の質を表す1つの重要な情報が価格である。高価格の商品は質が高く、低価格の商品は「安かろう、悪かろう」と考えるのが普通であろう。消費者(購買者)が商品の質に対して十分な情報を持っていない場合、この傾向はさらに強くなる。授業料が200万円と聞けば、それにふさわしい高度な教育内容を期待するであろう。しかし、もし授業料が1万円の大学と聞けば、その教育内容を疑うことが普通であろう。なお今、問題としているのは、授業料に対して公的補助がなされない大学教育を商品として見た場合であることを強調しておきたい。
 このような大学教育という商品の特性によって、大学教育の価格、すなわち授業料は低額に設定することが難しくなる。大学側は、低価格=低品質のラベルを貼られることを恐れて授業料を高額に設定する。これが、イギリスでも約9割の大学が3000ポンドという最高額を設定した理由として考えられる。しかし、定価は高額であるものの、大学によっては代わりに一律の大学独自給付奨学金を学生に提供することで、学生が実際に払う純授業料を値下げする。このように、高授業料・高奨学金政策は、実質的には授業料のディスカウント戦略である。
 こうした高授業料・高奨学金政策は1980年代以降のアメリカで盛んに行われ、大きな論争を引き起こした。同じようなことがイギリスでも起きようとしていると考えられる。紙幅の関連で触れられないが、オーストラリアでも2004年の高等教育改革によって、同じような混乱が起きる可能性があることが強調されていた。
 こうした各国での急速な改革に比べると、日本における授業料と奨学金制度の改革は、あまり進展しているようには見えない。従来日本では、高等教育の機会均等は政策理念としては重視されながら、具体的な政策課題としては地域間格差の是正や育英奨学制度に限定されてきたと言えよう。
 日本で高等教育機会の均等が重要な政策課題あるいは政治的課題とならなかった背景には、教育に対する家計負担の重さとアルバイトなどによって学費を捻出する学生生活があった。多少皮肉な見方をすれば、教育熱心な家庭とアルバイトに精を出す学生の存在が、教育機会の問題を顕在化させなかったと言える。
 しかし今後、所得階層間格差が拡大していくとすれば、現在のような家計による教育費負担は、もはや支えることができなくなる可能性が高くなる。とりわけ低所得層や、高等教育機会に乏しく自宅外進学を選択せざるを得ない地方の家計・学生に大きな影響を与えることが懸念される。今後は授業料と奨学金に関して、教育機会均等に悪影響を与えないように、制度的な改革をどのように具体化していくかが問われていると言えよう。
 しかし、授業料も奨学金も他の高等教育システムと同様、各国の文化、社会経済、政治の基盤の上に成り立っており、それぞれの歴史的な経緯を有している。その相違を十分考慮しないままに部分的に導入を図ろうとしても、かえって混乱を招くだけであろう。GP(グッド・プラクティス)だけでなく、そうした諸外国の高等教育システムの導入の失敗例についても調査報告していきたいと思っている。