アルカディア学報
「フンボルト理念」とは神話だったのか?-自己理解の“進歩”と“後退”
研究の世界では、しばしば「通説転覆」「通説否定」が起こる。これまで多くの人々が信じていた通説が、ある日、突如として誰かによって覆される。これほどエキサイティングなことはない。研究の世界の魅力はここにある。
現在、世界中の国で使われている大学史の標準教科書は、次のように説いている。
「近代大学の出発点は1810年に創設されたベルリン大学である。この大学の基本構想を作ったのは、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトであり、近代大学はこのフンボルト理念から始まった。フンボルト理念の中核は研究中心主義にある。つまり、大学は教育の場である以上に研究の場であるという考え方は、このフンボルトから始まった。これがドイツばかりでなく、世界の大学を変えた。」
ところが2001年、シルヴィア・パレチェク(当時、チュービンゲン大学。現在、フライブルク大学教授)は1つの論文を発表して、こうした歴史記述は史実に合わない。フンボルト理念も、ベルリン・モデルも、はるか後になって創作された「神話」にすぎないと結論づけた。つまり、フンボルト理念の指導のもとにベルリン大学の近代化が始まり、それが19世紀全般をかけてドイツ各地の大学に影響を与え、やがて19世紀から20世紀への転換期には世界各地の大学に影響を与えたとするのは、歴史的に証拠づけられていない記述だという。
パレチェクの立論の中核部分は、フンボルトという存在は1903年までは世間では知られていなかった。彼が書いた大学についての構想は100年ほど倉庫の中で眠っていた。だから少なくともそれ以前は「フンボルト理念」といった言葉はなかったはずである。その証拠に19世紀に刊行された法律辞典、百科事典を調べても、「フンボルト理念」という言葉は一度も出てこない。また、ベルリン大学が他の大学に先駆けて研究中心主義を採用したという証拠は見つからないとパレチェクは論じている。
かねてから、この「フンボルト理念」が世界各国にどのように伝播したのか、どのようなインパクトを与えたのか、世界各国で研究が蓄積されてきた。19世紀後半から20世紀初頭の時点でみる限り、各専門分野での研究の方法論を専門的に教える大学は、ほとんどドイツだけに限られていた。だから世界各地の研究志願者がドイツの大学に留学した。渡辺 実の研究によると、明治8(1875)年から同45(1912)年まで、日本が派遣した文部省留学生総数683名のうち、八割がドイツに留学している。ただし、これは日本に限ったことではなく、アメリカでは、19世紀中に9000名の者がドイツの大学で学んだとされている。こうしたアメリカ人留学生が帰国後、アメリカの大学改革の中心的な原動力となったことは、すでにさまざまな研究で明らかにされている。そのなかで、大学院という、その当時、世界中どこにも存在しない仕組みが作り出され、そこを拠点として「研究を通じての教育」という方式が導入され、それがアメリカの大学と学問の水準を引き上げた。これもまた、アメリカ大学史では通説となっている。
それでは「フンボルト理念」「ベルリン・モデル」という「神話」は、いったい、いつ頃、誰によって作られたというのか。パレチェクは、1910年、当時弱冠28歳だったベルリン大学の私講師エデュアルト・シュプランガーが「フンボルトとその教育改革」という書物を発表し、それ以来、この言葉が流布されることとなったと断じている。1910年という年はベルリン大学創設100周年記念にあたり、ベルリン大学の栄光をたたえる讃歌が必要だった。その時シュプランガーは、100年間歴史の片隅に埋もれていたフンボルトという人物を掘り起こし、彼の大学構想を紹介するとともに、その理念の正しさを賛美した。かくして「フンボルト理念」「ベルリン・モデル」という「神話」が創造されて、世界中の大学史がこうした叙述をするようになったとパレチェクはいう。
しかも、こうした「フンボルト讃歌」は、パレチェクによると、19世紀末以降、自然科学と技術の著しい進歩の影で、その存在感が失われつつあった精神科学の存在意義を改めて再主張し、再喚起する意図が含まれていたという。たしかに「進歩することが宿命づけられている自然科学」(マックス・ウェーバーの表現)と比較すると、人文科学、社会科学には、その「進歩」を客観的に証明する基準がない。自然科学は「進歩」することが当然で、それが退化することはない。それに比べれば、人間の人間自身についての認識は、「進歩」することはない。それでは人文科学、社会科学は存在する意味がないのかというと、そうではない。こうした点を論議するのが、ここでの目的ではないので、これ以上は立ち入らないが、人文科学、社会科学はこれまでも絶えず、その存在意義を外側に向かって主張しなければならない局面に立たされてきた。「フンボルト理念」はこうした危機意識の中から登場した言葉であり、事実、この言葉はその後の大学政策、学術政策の推進者、決定者によって、頻繁に用いられ、大学擁護、学問擁護の切り札として大きな役割を果たしてきた。
それでは、日本には「フンボルト理念」「ベルリン・モデル」は、いつ頃、誰によって伝えられたのであろうか。明治33(1900)年から同40(1907)年まで、京都帝国大学法科大学は、ドイツから帰国したばかりの高根義人教授を中心にして、「研究を通じての教育」という、当時の帝国大学には見られない、新たな教育方式を導入し実験した。その詳細は拙著「京都帝国大学の挑戦」に譲るが、その構想と実践は、明らかにドイツ・モデルに基づいたものであった。ところが高根たちは、彼らの目的、意図を「フンボルト理念」「ベルリン・モデル」として語ったことは、まったくなかった。また、明治42(1909)年から大正2(1913)年まで、東京帝国大学法科大学の外国人教師を勤めたハインリヒ・ヴェンティヒも、「経済学教授法改良意見」を公表してドイツ方式の採用を提案し、それを実行したが、彼もまた「フンボルト理念」とも「ベルリン・モデル」とも言っていない。日本における経済学の始祖ともいうべき福田徳三も、東京高等商業学校で同様な試みを企てたが、彼もまた「フンボルト理念」「ベルリン・モデル」などということは、一言も言っていない。
それでは、日本において「フンボルト理念」「ベルリン・モデル」という言葉が最初に登場するのはいつだったのか。筆者のこれまでの調査では、大正2(1913)年9月22日号の「万朝報」の社説(言論)が、その最初と思われる。それによると、「大学教育は1810年、ベルリン大学の創設とともに、一時期を画したとみて差し支えない。少なくとも科学的自由討究の途が開かれたのである」としている。
もし、パレチェクの説が正しいとすると、やがて世界中の大学史の教科書が書き直されることになるが、はたしてそうなるか。パレチェクからのメールによると、若い世代の研究者が幾人か支持してくれているが、まだ全面的に受け入れられた段階ではないという。「フンボルト理念」「ベルリン・モデル」という神話がベルリン大学創設100周年記念を契機として作られたとすれば、来る2010年の創設200周年記念にはどのような「神話」が登場するだろうか。「フンボルトよ、さようなら」という論は、現在、世界各地で語られているが、果たして創設200周年記念は「フンボルト理念」に死亡宣告を下すことになるのだろうか。もしそうだとしたら、それは「フンボルト理念」にとっては2回目の死亡宣告となる。1910年、ベルリン大学創設100周年記念の席上、当時のドイツ皇帝は「フンボルト理念」とはまったく逆の「研究と教育の分離」を主張した。本来ならば「フンボルト理念」の栄光をたたえるべきその瞬間に、すでに「フンボルト理念」は死亡宣告を受けていた。これほど、われわれの歴史はパラドックスに満ちている。われわれの自己理解は進んでいるのか、それとも後退しているのであろうか。