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アルカディア学報

No.242

学生の雇用可能性を開発-英国大学のキャリア教育

研究員 川嶋太津夫(神戸大学大学教育推進機構教授)

 周知のように、1997年に公刊された『生涯学習社会における高等教育(デアリング報告)』は、高等教育と経済の関係をあらためて強調した。来るべき「知識社会」において、英国が国際的な競争力を発揮するためには国民の教育水準の向上が不可欠であり、英国全体の高等教育への参加率を45%まで増加させるとともに、学生の「雇用可能性Employability」を高め、彼らの学習経験と将来の実社会とのレリバンスを向上させるように提言した。また、英国の高等教育の質の維持・向上の観点から、QAAは、その大学基準の一部として14の基準からなる「キャリア教育・情報提供・ガイダンス」基準を設定し、各大学はキャリア教育や情報提供及びガイダンスに関して、それぞれのポリシーを明示するとともに、専門家によるサービスの提供を求めている。したがってキャリア教育は、英国の大学においては、もはや周辺的な活動ではなく、大学教育と学生の学習経験に緊密に組み込まれている。例えば、英国の大学長の団体であるUniversitiesUKは、学生をより「雇用可能」にするために、各大学は知識の習得と就業経験と技術的・対人的スキルと組織への柔軟な対応力の開発とが統合された「全体的」なアプローチを取らなければならないと報告している。
 では「雇用可能性」とは何を指すのか?論者によってさまざまな定義がなされているが、この分野の第一人者であるM・ヨーク教授によれば、それは「スキル、理解、個人属性などの一連の業績Achievementsであり、卒業生が職を得る可能性と職業世界で成功する可能性を高め、卒業生自身、職場、地域社会そして経済に便益をもたらすもの(強調筆者)」である。より具体的には、専攻分野の知識とスキル、自尊心や効能感、そして「ジェネリック・スキルGeneric Skills」などからなる。特に最後のジェネリック・スキルは「転移可能スキルTransferable Skills」とも呼ばれ、創造性、柔軟性、自立性、チームワーク力、コミュニケーション力、批判的思考力、時間管理、リーダーシップ、計画性、自己管理力など、特定の文脈を越えて、さまざまな状況のもとでも適用できる高次のスキルのことである。現在、求人の六割以上が学生の専攻を問わないことから(オックスフォード大学でのインタビュー)、このジェネリック・スキルの開発が大学関係者の大きな関心を呼んでいる。
 しかし、このジェネリック・スキルは汎用的であるがために、専攻分野の知識やスキル習得と異なり、学生にとって体系的な獲得が困難なものであり、また、たとえ獲得していても自身が認識しがたいという側面もある。さらに、雇用者の立場からすれば、これらのスキルの獲得の有無こそ採用の可否を決める重要な要素にもかかわらず、それを評価することは困難であった。というのも、英国の大卒者は、卒業時に「学位記(等級付)」以外の証明書を授与されなかったからである。そこで、2005/2006年度より、すべての大学は、すべての学生の「プログレス・レポートProgress Report」を作成することとなった。
 プログレス・レポートは、大学の責任で作成する「成績証明書」と、学生の責任で作成する「パーソナル・ディベロップメント・プランニング(PDP)」からなる。(驚くべきことに、英国ではこれまで、大学は学生に成績証明書を発行してこなかったのである。)この大学が作成する成績証明書の内容は日本のそれとほぼ同じであり、受講した科目、成績などが記されることになっているが、それに加えてジェネリック・スキルの習得状況、就業体験、留学経験など、教室内外の学習経験のすべてが記入され、学生が在学中に成し遂げた業績を一瞥できるようになっている。またPDPは、主に雇用可能性に関連したジェネリック・スキルの習得について、学生が自ら評価し、その習得を計画し、見直し、記録するという作業を通じて、自己理解を深め、また他者に対して自己を提示する能力や、自己管理力の獲得を目指すものである。
 例えば、われわれが訪問したロンドン南方にあるサリー大学の経済学部では、時間管理、情報活用力、ITリテラシー、チームワーク、学習スキル、数的能力、コミュニケーション・スキル、実務能力の八つのジェネリック・スキルについて、各学期のはじめに自己評価し、それに基づき習得目標を設定し、学期末に振り返りをするよう学生に求めている。このように、学生自身によるPDPと大学が作成した成績証明書によって、学生は就職活動において、大学での学習状況と、どのようなスキルを獲得したかを雇用者に提示することが可能になるばかりか、このPDP作成の過程そのものが、生涯学習社会に不可欠な自己管理力を育成することから、大学卒業時のみならず、生涯にわたる雇用可能性を高める効果がある。特に、サリー大学のように在学中の就業体験を重視し、「コープ教育Coop Education(サンドウィッチ学位)」を導入している大学では、学生が大学から離れた実務体験中のジェネリック・スキルの習得状況をモニターするには不可欠の手段となる。
 ここで、サリー大学の特色であるコープ教育あるいはサンドウィッチ学位について簡単に紹介しよう。サリー大学では既に40年前からコープ教育を導入しており、専門職教育を大学の戦略として他大学との差別化を図っている。一般に学士課程は三年であるが、サリー大学では80%の学生が四年課程を選択し、3年目に企業や政府、自治体などでの就業を体験している。そのうち25%は日本の企業も含む外国企業であり、海外での就業体験でも最低3回はチューターが現地に出かけて直接、学生に指導を行うこととなっている。インターンシップと異なるのは、就業体験中に企業から給与が支給されることで、その額は新卒者のおよそ60%、金額にして平均1万7000ポンドとのこと。このプログラムが、企業からも学生からも高く評価されているのは、20%の学生が就業体験をした企業にそのまま就職し、また、40%の学生はサリー大学とコープ教育で提携する企業・機関に就職していることからもうかがえる。担当者によれば、日本と同様に、明確な動機や目的を持たないまま大学に進学した現代の若者を、学習と就職へ動機付けるためには「現実社会」の経験が必要で、3年課程の他大学では数か月の実務体験を導入している場合もあるが、専門職の訓練としては、最低12か月は必要とのことである。また、プログラムによっては、成績が上位の場合は四年で修士号も授与される。このコープ教育は、「サリーモデル」として、ブリストル大学やインペリアル・カレッジなどに影響を及ぼしているという。
 このように、ジェネリック・スキルの育成やコープ教育など、英国では実社会とのレリバンスの観点から大学教育そのものの再構築が図られている。
 日本では、大学教育と実社会とのレリバンスに疑義が呈せられて久しい。企業は従来、大学での専門教育を軽視し、採用にあたっては学校歴やクラブ活動の有無を重視してきた。他方、大学は、大学教育は就職のためにあるのではない。研究に基づく専門教育こそ大学教育の本分であるとして、企業の声に耳を貸さなかった。ところが日本経済の停滞に伴い、企業は大学に即戦力を要求し、一方、少子化に伴う全入時代を迎え、大学は学生集めのためにキャリア教育を重視するようになった。しかもそのキャリア教育は、本来の教育課程とは別枠で提供されることが多い。過去も現在も、企業と大学との間には大学教育の成果について、ミスコミュニケーション、いや、ディスコミュニケーションが存在しているのではないか。企業は、大学が育成すべき専門教育以外の能力あるいは即戦力が意味する具体的な能力を明示化してこなかった。他方、大学は、専門分野の知識やスキルの教育に熱心であっても、教養教育や汎用性のあるスキルの育成を軽視するか看過してきた。今こそ英国にみならい、専攻分野に関係なく、生涯にわたる職能開発の基盤となるジェネリック・スキルとは何かについて両者が対話し、大学教育の成果について協働で開発に乗り出すべきではないか。その努力を欠いては、グローバル化した経済競争の中で日本が勝ち残る可能性は少ないと考えるのは筆者だけであろうか。