アルカディア学報
科研費の構造的課題 日本の科学技術に将来を
昨年12月の朝日新聞の論壇に、拙稿「科学研究費は私立大軽視だ」が掲載されたが、予想を越える反響を呼んだ。議論を通じて真理に到達するという方法は、ギリシアの賢人たちを始祖とするもので、科学に携わる者にとって議論の活発化は理想的である。私の主張の本意は、「私立大出身者の学界での貢献度が、他の分野(財界、マスコミ等)に比べて小さく、その原因が国からの科学研究費が私立大軽視であることによる」というものであり、「学界のレベルアップのためには、私立大研究者の参加による人的資源の有効利用が不可欠である」というのが主旨である。しかし、論壇では紙面の制約上、この後半にほとんど的をしぼった。したがって、拙稿について多少の誤解を生じている点もある。私個人は、掲載後に、私学高等教育研究所の喜多村和之主幹をはじめとして、多くの方々がこの問題に取り組まれていることを知った。今回、拙論を述べる機会を頂戴したことに感謝したい。
まず、社会での私立大出身者の占有率から見てみたい。現在、ほとんどの分野での私立大出身者の占有率は、国立大出身者をしのいでいる。衆参両院の国会議員数、一部上場企業の役員数および社長数、毎年の司法試験の合格者数など、多くの分野で私立大出身者が過半数を占めている。これは、私立大の卒業生数が国立大の約3倍におよぶので当然の現象のように思える。人数比から考えて日本の高等教育の重心は私立大にあり、国立大出身者が多数を占めているのは、官界にほぼ限られる。
次に、学界の状況を見てみたい。4年制大学の教員数は、国立大6万人に対して私立大7万7千人(国立大の1・3倍)である。私立大と国立大の間の人事交流が比較的少ないことを考えると、出身大学比をかなり反映していると考えられ、学界においても私立大出身者が過半数を占めていると推定される。しかし、学界におけるアクティビティは大きく異なる。近年、米国のデータベースを利用した大学別の論文数が報告されるようになったが、その内の学術情報センターの根岸正光氏らによる日本の上位50校までの大学別の論文数の報告(1981-1997年までの16年間の統計、学術月報 Vol・53、258(2000))を集計してみると、50位中私立大は10校にとどまり、その総論文数は国立大の8分の1にすぎないことがわかる。457校ある私立大の内、10校しかカウントされていないので論文数のかなりが抜け落ちている可能性があるが、学界で国立大が主導的な役割を果たしているのは明らかである。
したがって、学界は官界とならんで国立大出身者が主導的な地位を占める例外的な構造をなしている。官界については、国家公務員志願者は、大学進学時点で国立大を選択する可能性が高いので、ある程度の合理性が認められる。しかし、学界における格差を生み出す主因は何であろうか。科学者としての視点から見れば「大学での研究」に格差を生み出す特殊な力が働いていると考えるのが妥当である。
研究成果を生み出す要素として重要なのは、人的資源と研究資金である。人的資源が過半数を占めながら研究成果があがらないとすれば、研究資金に問題があることになる。国からの科学研究費で最大のものは文部科学省の科学研究費補助金(科研費)である。ここで科研費の議論を主とするが、それは、相対的にもっとも透明性が高く客観的な議論に耐えうるデータが公表されているためである。他省庁や文科省の他の研究費の配分に問題がないわけではない。2000年度の科研費は、1419億円が支給されていて、そのうちの988億円は、日本学術振興会を通じて配分されている。学術振興会を通じた配分先の全リストを集計してみると、988億円の内、73%が国立大であるのに対して(国立研究所を含めると79%)、私立大への配分額は14%にすぎない。このように国立大には私立大の5・2倍の科研費が配分されている。私立大と国立大の教員数や学生数の人数比と比べれば、科研費が著しく国立大に偏重していることがわかる。日本経済新聞社の鳥井弘之氏によると(「私大の役割生かせ」日本経済新聞、2000年11月20日)、国からの研究費は、全体でも私立大1800億円に対して、国立大8200億円と4・6倍の差があるとのことなので、この配分比は、他省庁の予算でもほぼ同じであると推測できる。
国立大では、科研費と論文数がともに大きく、私立大では両者がともに小さいので、この両者に強い相関があると言える。さきほどの大学別の論文数を科研費(1994年と1997年の平均値、「大学ランキング」朝日新聞社刊)で割ってみると、大学ごとの科研費と論文数の間にかなりきれいな比例関係があらわれる。これは、科研費が大きいほど研究項目の数を増やせるので、論文数が増えると解釈できる。したがって、私立大に配分される科研費の額を増額すれば、私立大でも論文数が増えると簡単に予想できる。この科研費あたりの論文数は、旧帝大の値を1とすると、それ以外の国立大では、1・7となり、私立大ではさらに跳ね上がって2・4となる。すなわち、私立大では、科研費あたりの論文数は、旧帝大の2・4倍におよぶ。私立大の値が大きいのは、科研費が少ないため、大学の内部資金を利用している実態を反映している。また、このデータを、研究成果(論文数)に基づく科研費配分の評価という視点で見るならば、私立大は論文数の割に著しく科研費が少ないと解釈できる。したがって、科研費配分の審査の公平性に問題があることを示している。
科研費配分の審査体制も私立大軽視である。科研費の審査は、二段階の階層をなしている。理工系の場合、一次審査員の数は国立大83%に対して私立大は13%にすぎない。二次審査員では、国立大91%(旧帝大と東工大76%+その他の国立大15%)に対して私立大は6%にすぎない。また、国立大の審査員の内でも旧帝大の教官が圧倒的多数を占めている。したがって、審査員の最大数を占める国立大(特に旧帝大)グループと科研費の最大の受益者は同じグループであるという構造的な欠陥がある。
この審査の不公平を是正し、日本国内でバランスのとれた科学レベルの向上を図るためには審査体制の改善が必要である。少なくとも、私立大と国立大の本来の人的構成比にしたがって審査員を配分すべきである。明治期の選挙では、有産階級だけが選挙に参加するというシステムだったが、現在の審査体制はこれに似ている。各審査員が公平性を期して真摯に職務を果たしていることは当然認めるが、審査システムそのものに問題がある。米国で医学関連の研究費を配分している国立衛生院では、無作為に審査員を選ぶシステムを併用しているが、この種の公平な選考方法の導入が不可欠である。
かつて、明治時代に帝国大学が誕生した時には、西欧の科学技術を輸入するために、少数の帝大に研究資金を集中して、キャッチアップする必要があった。先端技術が理解できなければ輸入しても意味がないからである。しかし、そういう大学の役割ははるか昔に終えている。むしろ、大学に望まれているのは、新しい発想のもとに(単なる輸入ではない)創造的な成果を生み出すことにある。そのためには、発想の多様性が重要で、ほぼ同一の組織体制をもつ国立大に偏重して資金を配分することが望ましいかどうかは大いに議論の余地がある。現状の審査システムを維持する限り、研究費の配分比はそのまま残り、日本が本来持っている力は発揮されないことになる。国は現在の危機的な財政状況の中で科研費の増額を図っているが、国民への公的資金の還元という視点から考えると、私立大への研究資金を増大させ、日本の残り半分以上の人的資源とその発想の多様性を活用する必要があると考える。
(本稿は早稲田大学理工学部助教授の竹内 淳氏にご執筆いただいたものです)