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アルカディア学報

No.236

ガバナンスとミッション-公共性維持のメカニズム

主幹 瀧澤 博三(帝京科学大学顧問)

なぜ「ガバナンス」か
 経営者は企業の所有者ではなく、所有者は株主である。そして、大企業になると株主は多数に分散し、経営と所有が分離するようになる。経営者は長期的な投資を、株主は配当を、というように両者の利害は一致しないところが多いから、経営と所有の分離に伴って所有者の利害が経営に反映されなくなる。そこで、関係者の利害に沿って経営の効率性が維持されるように経営者を規律づけるような組織的なメカニズムを作ろうというのが、コーポレート・ガバナンスの考えである。しかし、株式の所有形態は国によって違いがあり、利害関係者(ステークホルダー)の範囲も時代によって考え方が変化してくるので、ガバナンスの考え方も多様である。
 最近は、このコーポレート・ガバナンスの考えを大学に応用して、「大学のガバナンス」という言葉が盛んに使われるようになった。しかし、その理論や概念が大学の経営問題の解明にどこまで有効なのか、疑問点も多い。経営の効率性あるいは公正性が維持されるように経営者を規律する組織的なメカニズム、これは大学の経営にとっても大事ではあるが、そのためにステークホルダーとの利害の調整の仕組みを活用するという経済の原理に立った理論は、大学になじみにくいように思う。大学のガバナンスの焦点は何か、今回はそのことを考えてみたいと思う。

私学のガバナンス
 平成16年5月に私立学校法が改正され、理事制度、監事制度等の改善が行われた。この問題を審議した学校法人制度改善検討小委員会では、検討課題として「学校法人におけるガバナンス機能の強化」を挙げていたが、当時は、一部の学校法人による経理の不正処理等が世間に波紋を広げていたときであり、そのことが審議の背景にあったと推測される。この小委員会の最終報告書でも、私学の現状について、「学校法人の公共性を一層高めるとともに、自主的・自律的に管理運営を行う機能を強化する」ことが重要な課題だと述べている。このような不正の問題を別にしても、いま、「私学の公共性」の理念は危機にあると思う。大衆化とともに大学の市場化といわれる現象が進んでおり、これに市場原理主義、消費者中心主義を掲げる規制改革の流れが加わって、公教育の理念が薄れ、大学教育を私事とする見方が加速されているように思えるからである。
 学校法人も自律的な経営体である以上、コーポレート・ガバナンスと同様に、効率性をガバナンスの中心的な目標とすべきは当然であろう。私学の場合、これに公共性を加えなければならない。目標は効率性と公共性である。さて、主要なステークホルダーは誰か。学校法人には株主に当たる所有者はいない。しかし財産の寄附者はいるわけだから、これが最も重要なステークホルダーであろう。寄附者は生身であるが、その表明された意思は寄附財産の存続する限り生き続けて、財産の運用を規制する機能を果たすことができる。この意思は「建学の精神」と呼ばれ、私学の特色ある一つの制度として定着していると言えよう。したがって、この「建学の精神」は、私学の経営者を規律づける有効なメカニズムたりうるし、私学の公共性に対する国民の信頼を高めるためには、そのメカニズムが私学経営にしっかりと組み込まれるように工夫する必要がある。この点については、1月11日付の「アルカディア学報」でも述べたので重複を避けたい。建学の精神は私学のガバナンスに中核的役割を果たすべきであり、それが経営にどのように生かされるかはマネジメントの役割である。

国立大学のガバナンス
 遠山プランと呼ばれた「大学(国立大学)の構造改革の方針」の衝撃的な公表から既に五年になるが、その後の大学改革の急激な進展を思い起こすと、五年というのは信じられないほどの短さにも思える。とは言っても、この間の改革の主役は国立大学であり、改革を決定的にしたのは国立大学法人法の成立である。国立大学を法人化し、「民間的発想の経営手法を導入する」としたこの「構造改革の方針」に従って、国立大学の運営は教授会中心の分権的運営から180度の方向転換をした。経営の最高責任者としての学長に権限が集中し、人事、予算の運用が各大学の自主性に委ねられたことによって、学長がリーダーシップを発揮できる体制が整ったと言えよう。
 そこで、この国立大学の経営改革は具体的にどこまで実現しつつあるのか。「構造改革の方針」では、「経営責任の明確化による機動的・戦略的な大学の運営」などとも言っており、法人化後ようやく2年になろうという段階で、そのような経営改革が完成するとは思えないが、少なくともそのような方向性に対する学内での原理的な拒絶反応は意外なほどに少ないように見受けられる。国立大学の組織風土は、既に革命的な変革を遂げたようだ。国立大学は、少なくとも経営体質を変革する可能性を十分に備えたのかもしれない。
 しかし、国立大学法人の新しい経営のあり方については、このような効率性の問題とは別の重要な問題がある。法人化したとは言っても、依然として国費に依存している国立大学は、国の政策実現に責任を負うべき使命を持っているはずであって(この点について、法人化に際しての政府の説明はきわめて曖昧である)、競争基盤のまったく異なる私学と同様に、自由な立場で高等教育市場に競争的に参入するということは本来ありえない。そうとすれば、「民間的発想の経営手法」というのは誤解を招く表現である。コーポレート・ガバナンスの概念を援用するのならば、国立大学の最大のステークホルダーは、国民であり、国民を代表する政府である。国民及び政府の利害を反映するメカニズムを経営システムに組み込むことが、国立大学のガバナンスとして一番大事なことであろう。
 国立大学法人法では、政府による「目標による管理」の仕組みを定めているが、中期目標の記載事項は教育研究の質の向上や効率性に関することとされており、国立大学のミッションと言えるものはそこには見当たらない。また、文部科学大臣が中期目標を定める際には、大学が作成した原案に配慮することとされており、政府の政策的意図がどこまでこれに反映されるのか明確ではない。中期目標は国立大学のガバナンスを支えられるのだろうか。国の高等教育政策の実現よりも、個々の大学の存続・発展を重視し、「民間的発想の経営手法」によって市場での競争戦略に専念するようになったとすれば、国立大学の存在意義が改めて問われることになるだろう。

大学のガバナンスの理論構築を
 ガバナンスを、効率性と公共性が確保されるように経営者を規律づける組織的メカニズムと捉えたとき、大学が自ら掲げるミッション―建学の精神、使命・目的、中長期目標などが、その中心的な役割を果たすべきである。建学の精神も、ガバナンスの観点から、そのあり方、位置づけを改めて見直し、DNAのごとく、経営者、教職員、学生などの関係者を規律し続けるように工夫しなければならない。
 学校法人のガバナンスについては、既に私立学校法の改正によっていくつかの重要な改善が図られた。これを土台にして、さらにそれぞれの実態に応じた各大学の工夫が必要であるが、その際、企業のガバナンスの理論や概念を援用することは、時としてかえって問題の所在をわかりにくくする恐れもあるように思う。大学独自のガバナンス理論が構築されるよう、今後の研究に期待したい。