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アルカディア学報

No.230

“大学教師は魅力ある職業ですか?”

客員研究員 矢野 眞和(東京大学大学院教授)

 「教育はサービスである」「サービスの基本原理は、相手の身になって考えるということである」「教育サービスの相手は学生だから、学生の身になって教育しなければいけない」。
 25年ほど前のことだが、ある研究会で、経済サービス・モデルの基本的性質と大学教育がかかえている問題点について報告した。経済学のメタファーを使った若造の話に、お偉い大学教授の面々が顔をしかめていた。
 あれから25年。「学生満足経営」が大学経営革新を語る基本原理になった。教育のサービス化である。今の学生は勉強熱心になっているし、教育熱心な教師もかなり増えた。学生の授業料に依存した大学経営を考えれば当然であり、非常に健全なことだと思う。
 そしてさらに、大学院も研究機関ではなく、教育機関になることが期待されている。学問の後継者を育成するよりも、社会に通用する人材の養成が重要だという。出身大学よりも、どこの大学院を出たかが決め手になるという人もいる。大学院学歴の時代である。
 教育だけでなく、研究の改革も進んでいる。国際競争力を高めるための資金調達と配分方法が模索され、大学間及び研究者間の競争を刺激する評価装置が導入されるようになった。科学技術基本計画も、財界の強い支持を受けて、国家政策の中心になっている。
 すべて、ことは順調のようである。改革推進派は悦に入っているのではないかと想像される。改革なくして成長なし。政治の殺し文句が大学改革をリードしたのかもしれない。しかしながら、大学は順調に成長するのだろうか。冷静に思考してみれば、ことはそれほど単純ではない。
 大学の教養も専門の知識も役に立つ、教育の経済投資効果は大きいと言い続けてきた私は、教育を大事だと考えてきたし、大学の教育は昔よりは良い方向に動いていると判断している。しかし、それは法制度改革の成果ではない。経済不況と教育人口の減少に伴って、大学間の競争的市場が形成され、眠っていた大学が目を覚ましたからである。最近の拙著(『大学改革の海図』)でも、現実の改革動向を追いかけながら、次世代を担う若者の教育に「助け合いのマネー」である税金を投入する公教育の政策デザインが重要だと強調した。大学が目を覚ましたとはいえ、個別大学の努力には限界があるからである。
 戦後の人材育成は、政府による教育投資ではなく、企業による教育投資によって支えられてきた。この要の企業が人材育成を放棄しつつある。短期的視野とリスク回避が「市場」の特徴であり長所だが、その市場はリスクを伴う長期的な視野に立った人材育成を苦手としている。だから、政府による教育投資が必要になる。市場の苦手な欠点が顕在化しなかったのは、稀有な経済成長が長く続いたからである。
 次世代の育成に失敗すると国が滅びる。大仰な遠吠えだと思ってはいけない。リアルは目の前にある。次代を担う大学人の育成に失敗した大学は、すでに瀕死の重傷を負っている。政治の殺し文句と改革の嵐が、重傷の大学を殺そうとしている。今の大学よりも未来の大学が重要だ。
 考えてもほしい。学部を卒業してから、さらに5年間以上も高い授業料を払い続けて大学院の博士課程に進学するのは、大学の教育者になりたいからではなく、研究者になりたいからだろう。ところが、30歳近くまで授業料を支払って勉強しても、卒業後に研究職に就ける保証はまったくない。たとえ幸運に恵まれたとしても、大衆化した大学の教育に追われて、静かに研究できる環境にはない。そのような職業に人生を賭ける若者は、よほどの研究好きに違いない。優秀な研究好きばかりなら救われるが、現実は決してそうではない。
 繰り返すが、学生の授業料で経営されている大学は、研究よりも教育を大事にするのが道理だし、教育を通して知識の脆さと不完全性を学ぶことが多いから、教育を第一の使命にすべきだと思う。しかし、それは、研究者の役割があってのことである。もちろん、すべての大学教師が研究者である必要はない。もはや、そういう時代ではない。しかし、研究という新しい知識創出の営みがあっての大学である。そうした知識集積の波及効果と共有化によって、大学の教育が支えられている。研究の改革も進んでいると言うかもしれないが、それは錯覚だろう。改革によって優秀な若者が押し寄せるようになったという話は聞いたことがない。若手の研究環境は、十二分に恵まれていなければならない。そうでなければ、人は集まらない。
 学問の後継者が育たなくなったのは、最近の現象ではない。いまさら指摘することでもない事柄である。にもかかわらず、憂慮するのは、これまでの衰退に拍車をかけるような改革が進行しているからである。致命的な改革(改悪)は、奨学金制度と任期制度である。
 奨学金は、一昨年から、大学教師のための返還免除制度がなくなった。5年間の奨学金は、総額にして600万円ほどになる。大学教師になれば、この奨学金の返還は免除されたが、これからは返還しなくてはならない。給与が高いわけでもないのに、600万円の借金をかかえることになる。このように改悪されたのは、大学の教師だけを特別に優遇するのはおかしいと判断されたからである。民間企業に就職する者も免除すべきだからという理屈から、就職先ではなく、本人の業績によって評価し、優れた奨学生だけを選抜して免除する制度に変更された。日本学術振興会の特別研究員制度が整備されたから、奨学金による支援は縮小してよいという判断も重なった。もっともらしい理屈のようだが、こうした政策が効果をもつためには、少なくとも次の3つの条件が不可欠である。
 (1) 優秀な研究者志願者が需要をはるかに上回る。要するに人気がある。〈過剰供給の条件〉
 (2) そのプールから優秀な者を評価し、選抜する方法が適切である。〈適切評価の条件〉
 (3) 大学の教師になれなくても、他に就職できる機会が開かれている。〈労働市場の開放条件〉
 こうした条件を満たす労働市場になっていれば、このような制度改定も上手く機能するかもしれない。しかし、この市場の三条件がすべて成立していないのが日本の現状なのだ。
 特別研究員制度は、いまひとつの改革である、任期制の問題と関係している。若手教員の任期制が急速に導入されている。任期制のなかった世代が、次世代の若者に任期制を導入している。大人の身勝手もはなはだしい。3年ほどの任期で特別研究員や研究員、助手、助教授などのポストがあっても、将来の保証は何もない。ポストに就けても、すぐにその後の職を考えないといけない。落ち着いて研究することはできないだろう。しかも、評価、評価の合唱だ。評価能力のあやしい者が、評価の包丁を振り回すから、危険この上ない。30歳をすぎても安心して仕事に打ち込める職業に就けない。これでは結婚もできない。
 任期制に反対するのは時代遅れだと批判されるに違いない。しかし、任期制が機能するためにも、先の3つの条件を満たすことが不可欠である。日本の現状では、任期制よりも「移動したら得をする」システムに変更するのが先だろう(現実は、移動すると損をするシステムである)。
 大学教師が若者にとって魅力的な職業にならなければ、すべての大学改革はバブルになる。私が教育経済学に関心を持ったのは、教育の価値をお金で測定するためではない。人間の行動を合理的に理解する方法として優れているからである。合理的な行動理論によって現状を分析し、未来に向けた解決策(政策)を考えなければならない。日本における教育経済学の未発達は、教育を合理的に考えることを放棄してきた証である。
 私の読みが杞憂だと思われる方は、普通の若者ではなく、「優秀な」若者に問うてみればよい。「大学教師は魅力のある職業ですか?」。