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アルカディア学報

No.229

正しい高等教育情報―鏡に映る日本の高等教育

研究員 羽田 貴史(広島大学高等教育研究開発センター教授)

 高等教育の制度・政策や構造を理解するうえで欠かせない方法が、歴史研究と他国との比較研究である。特に、改革にはさまざまな智恵が必要であり、あるプランが思いつきでないことを確認したり、プランを思いつくためにも、他国、とりわけアメリカやイギリスの高等教育情報に注目が集まってきた。
 ところが、こうしたアプローチは、日本の高等教育の問題関心に基づいてテーマや情報を選択するものであり、他国の高等教育制度を、それが根ざしている文化・歴史を含めて理解するものではないために、個々の概念や用語が正しく受容されないという問題が生じやすい。往々にして誤解のうえに議論が積み重ねられる場合さえある。
 例えば、アメリカの大学運営を象徴的に示す“Shared authority”ないし“Shared governance”という用語である。高等教育財政の専門家であるブルース・ジョンストン教授と、大学経営論の専門家であるバーンバウム教授に、「アメリカの大学運営の特質は何か?」と尋ねた時、言下に出てきた言葉は“Shared governance”であった。ところが、この言葉は日本語で「権限共有」と訳され、大学教員と大学管理者とが権限を共有するものとして説明されている。
 しかし、アメリカの高等教育管理に関する文献は、“Shared governance”を、「一般的にはファカルティ、アドミニストレーターと理事会(ガバーニング・ボード)との間での権限の分割」として理解している(Edward R. Hines,“The Governance of Higher Education,” in Higher Education:Handbook of Theory and Redearch, 2000)。この概念は、教学事項と経営事項とを区分して、理事会・学長・ファカルティとの間で分担し合う管理運営の構造を反映した結果なのである。乏しい資源を拡大する需要に対して有効に活用するうえで、ファカルティによる同僚的な大学運営には限界があり、イギリスのジャラッド報告(1985年)やデアリング報告(1997年)が提言してきたように、戦略的大学運営を進めるためには、理事会など管理団体の役割強化は不可欠の要件である。
 日本の昨今の大学改革も、国立大学法人法(1997年)、地方独立行政法人法(1999年)による公立大学法人制度、私立学校法の一部改正(2004年)と、すべての設置形態において、学長(理事長)などのトップマネジメントの強化、経営協議会の設置や理事会の権限強化、教員の代表からなる評議会や教授会などの権限の縮小を特徴としている。また、いずれも、教学事項をも「業務」に含むような法律改正となっており、教学事項と経営事項の区分があいまいになり、分担管理が崩れつつあるともいえる。
 けれども、アメリカにおいても、理事会の権限は外的事項に重きが置かれ、分担管理は生きている。例えば、Burton ClarkやGuy Neaveら編集のThe Complete Encyclopedia(1998年)は、理事会の連合団体であるAGBUC(Association of Governing Boards of Universities and Colleges)による学長や理事会向けの大学運営のハンドブック(A Handbook for Trustees, Chief Executives, and Other Campus Leaders, 1993)を引きつつ、理事会の権限として、(1)機関の使命を明らかにすること、(2)学長の指名、支援、査定、(3)効率的な長期計画の保証、(4)適切な資源の保証、(5)効率的な資源の運用、(6)教育計画の認可、(7)キャンパスと地域社会との架橋とバッファとしての奉仕、(8)機関の自律性の保護、(9)不服申し立ての裁判所、(10)学長、ファカルティ、財政担当者などの活動のレビューをあげており、理事会の権限は、予算、土地建物、財源集めのためのビジネス面に制限すべきで、予算と施設はアカデミック・プログラムに基づき、理事会は予算の承認を通じて教育計画の認可を行っていること、アカデミックな事項について理事会が責任を負うのは、人事計画と手続きの認可、教育計画が機関の使命と内的に合致することの保証であると述べている。
 もちろん、建前と現実は同じではないから、アメリカの大学がすべて同じというわけではない。しかし、コーネル大学の高等教育研究センターが、2001年に行った最近の大学運営に関する包括的な調査研究(Ronald G.Ehrenberg(edit), Governing Academia, 2005に所収)では、共同管理は不効率とは言えないし、ファカルティは大学運営に積極的な役割を果たし続け、1970年と比較しても、むしろ拡大しているという興味深い結果を報告している。この研究は、1970年にAAUPが行った調査項目に沿って行われ、その内容を読むと、ファカルティは、教員人事、カリキュラムの決定、学位要件の決定、専門分野のファカルティの規模など、多くの教学事項について、自ら決定するか諮問を受けるかを含めて、30年前よりも参加が拡大しているという。学部長の任命についても、ファカルティによる決定はわずか2.8%に過ぎないが、1970年には0.7%と、もともと低かったもので、諮問を含めると46.7%に過ぎなかった参加は、86.2%に増加しているのである。学科長になると、ファカルティの決定と共同決定は、合計して過半数を超える。アメリカの大学は、リースマンのいう教授団革命により、1960年代に大学運営への参加が進んだものの、もともと運営は理事会の責任だったのだから、大学運営の権限の問題は、動態として理解しないと実像を誤解することになる。この調査結果がすべてとはいえないが、トップマネジメントに権限を集中し、教員が大学運営に参加すること自体が運営の妨げになるような議論が、最近多すぎることへの警鐘にはならないだろうか。
 国立大学法人の中期計画・年度計画には、運営組織改革が多く掲げられ、はじめて行われた平成16年度業務実績評価でも、学長補佐体制や委員会を廃止して、「室」組織を設置するなどの事例が多く見られる。
 だが、学科運営に学科長が責任を有する体制をとる室蘭工業大学に対し、「学長のリーダーシップとの関係への配慮が求められる」と国立大学法人評価委員会が評価したのは、学長のリーダーシップとトップマネジメントを強化することが、運営の効率化を進めるとの単純な思い込みである。大学の内部で実際に運営に関わってみれば明らかだが、大学運営は教員の参加と協力なしには機能しないし、トップマネジメントがそれほど有能なわけでもない。学科長などの基礎組織の権限を強化し、一面で分権化を進めることは、効率的な大学運営方策としてアメリカやイギリスの大学で採用されている戦略なのである。
 アメリカの大学管理者向けハンドブックの一つ、National Academy for Academic Leadershipによる、Field Guide to Academic Leadership(2002年)は、「不幸にして多くの理事は高等教育について基本的な理解がない」と嘆き、理事に自分たちの職務と責任をわきまえることを求めている。公立大学の理事会は知事が政治的な関係で選び、高等教育の知識や関心のない人が選ばれたり、私立大学の場合は、寄付者を理事にするので数が多くなったり、特定のファカルティメンバーの問題やプログラムにのめりこんだりする理事がいるといった問題も指摘している。日本の大学にも、かなり当てはまる指摘であるし、アメリカの大学運営も問題を抱えていることは、少しの慰めにもなろう。
 問題は、なぜ、こうした情報がアメリカの大学運営研究から提供されてこないかということである。比較高等教育研究といっても、その内容は、外国教育事情に過ぎないことが多い。正確な教育事情であればまだよい。結局は、日本の文脈から見て必要な情報を切り取ってくるからで、それは研究のバイアスとして避けられない部分もある。しかし、大切なのはバイアスを直視することであり、そうしたバイアスが生じる自分たちの問題関心の傾向を自覚することであろう。その点で、比較研究は、日本の高等教育研究や高等教育の課題の傾向を映し出してくれる、鏡の役割を果たしているのかも知れない。

 《訂正》前号のアルカディア学報「227号」は、「228号」の誤りでした。