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アルカディア学報

No.227

質保証のための新システム―競争・評価・監視は何を生むか―

帝京科学大学顧問 瀧澤 博三

1、設置認可制度と私学の理念
 設置認可制度を中心とする「質の保証システム」が大きく変わった。規制改革の流れに沿って、設置審査手続きの簡素化等が漸進的に進められてきたが、システムの本質がガラリと変わったのは、平成14年の中教審答申「大学の質の保証に係る新たなシステムの構築について」によってである。この答申は、総合規制改革会議の第一次答申をほぼ忠実に受け入れたものであるから、この大変革の震源はやはり「規制改革」である。  設置認可制度は私立大学政策の中心的な柱である。その私立大学は、日本の大学の7割以上を占めるわけだから、設置認可制度の大変革はそのまま大学政策の大変革である。その大変革が、市場原理を掲げた規制改革の論理だけであっさりと実現した。自主性、公共性の理念とともに、安定性・継続性の原理を掲げてきた私立大学の世界は、質保証の新たなシステム、規制改革が目指す「競争と評価と事後の監視」のシステムによって、どのように変わっていくのか。それが、過度な競争による教育研究の劣化と大学淘汰による教育の不安定や混乱ではなく、切磋琢磨による大学の活性化と質の向上であると信ずる根拠がどこにあるのか。規制改革の答申を見ても、中教審の答申を見ても、規制改革の原則論だけで、こうした不安に答えるものは見当たらない。
 設置審査には主要な役割として3つの柱があった。教員の審査と資産の審査と必要性の審査である。この3つの柱は、私学の理念とされてきた自主性、安定性、公共性の3つの柱に対応している。ところが、「質の保証に係る新たなシステム」では、設置審査からこの3つの役割をすべて放棄しようとしているようである。筋書きとしては、事前規制としての設置審査を軽くした分は、事後チェックとしての認証評価と「法令違反に対する段階的是正措置」が、その役割を担うという期待のようであるが、それは可能なことなのか。また、適切なことなのか。大変な疑問である。悪くすれば、私学はこれまで培ってきた三つの理念―自主性、安定性、公共性をともに喪失し、単なるサービス産業の一つとして市場を漂う存在となるかも知れない。
2、設置審査の3つの役割
 設置審査の3つの役割が「新たなシステム」の下でどのように変わろうとしているか、あらためて見てみたい。
 〈教員の審査〉設置審査のメインは教員の審査である。これは、個々の教員の資格審査であるとともに、専門分野の教員集団として、当該分野の教育研究を自律的に運営していく力があるかどうかの審査でもある。そのようなプロフェッショナル集団としての力量を公認されることによって、設置後においては、社会からも行政からも大学運営の自主性が容認され、質的水準の維持、公益性の確保については、基本的に大学の自律性が尊重されるのである。このように、教員審査は大学としての存在の基本条件に関わるものである以上、事前審査であることが必然である。
 学部・学科設置の自由化(届出化)については、現状は学位の種類及び学問分野の変更のない場合のみ、届出とすることによって教員の事前審査を辛うじて最小限維持しているが、規制改革の委員会からは、なお全面的な届出化を求める答申が出されている。
 〈資産の審査〉教育の事業には安定性と継続性が不可欠である。そのための仕組みとして、私立学校法制定以前においては、周知のように、私立学校の設置主体は財団法人であることが原則とされた。学校法人制度は、学校に相応しいようにより公共性を高めるべく、財団法人の仕組みに手直しを加えたものであって、基本的には財団的性格を引き継いでいる。私立学校法が民法の財団法人の規定の多くを準用しているのは、そのことを意味する。
 規制改革の委員会からは、校地・校舎の自己所有原則の緩和等、資産基準の見直しが求められているが、借入金で事業を行い、その利益で返済するという企業的財務運営を認めることになれば、学校法人の基本的性格は全面否定されたことになる。
 〈必要性の審査〉設置審査にあたって、設置基準の適合性だけではなく、社会的要請など、公共的視点からの「必要性」の判断を加えることができるか。できるとすれば、どの程度の裁量の余地があるか。この点に関しては解釈の相違があり、政府の解釈にも沿革的にゆれがあった。しかし実態として、高等教育への需要の拡大とともに、高等教育の整備に計画性が求められるようになり、審議会での審議等を経た上での高等教育の規模・配置の調整が「必要性の判断」として定着してきていた。その意味で、設置認可は「羈束(きそく)された裁量行為」であるというのが定説であるといってよかろう。
 規制改革の原理原則からすれば「政府の判断よりは市場の選択」であって、政府の判断の余地はゼロであることが最善であり、設置認可は「準則主義」とすべきだとされている。今年1月の中教審答申が、「高等教育の将来像」に関連して、これからは「計画」の時代ではないと宣言したのもこの方向に沿ったものであろう。「準則主義」とは株式会社設立に関して商法に規定されていることであり、私的な経済活動には国は一切関与しないという原則の表明である。「準則主義」は私学の「公益性」を揺るがすことだろう。
3、新しい「質の保証システム」の再検討を
 設置審査はその役割を縮小し、更に無力化されようとしている。規制改革の考え方では、認証評価は設置審査に代わる役割を事後において果たすものであり、それは設置後の「監視体制」(総合規制改革会議第一次答申)だと位置付けている。しかし、前述したように、これまでの設置審査が果たしてきた役割は、事柄の性質上事後では果たせない。また、既に始まっている認証評価は、いずれもが各大学の自主的な改革・改善を支援することを本旨としているものであり、政府に代わって大学を常時監視するという認識は持っていない。こういう準公的な監視体制の構築を、大学に相応しいシステムだと考える社会常識が今の日本にあるとは考えられない。結局、質の保証システムについて、今の規制改革の方向で進めていけば、事前・事後ともに質の保証は機能せず、私学は私立学校法に掲げられた自主性、公益性の理念を喪失し、安定性・継続性への信頼も失うことにならざるを得ないだろう。
 自主性、公益性、安定性を理念とするシステムが万全だというつもりはない。自主性の理念は閉鎖性を、公益性の理念は権威主義と自尊を、安定性の理念は緊張感と活力の喪失を招きやすい。これまでの大学のあり方に対する批判はこれらを指摘してきた。規制改革の掲げる自由と競争と自己責任の原理が、これまでの大学が陥っていたこれらの欠陥を是正するものとして有効であることを否定するつもりもない。ただ、1つの原理を万全のものとし、他の原理を全否定する誤りは犯さないようにしたい。
 平成17年1月の中教審答申「我が国の高等教育の将来像」では、設置認可、特に教員審査の重要性をあらためて指摘しており、また、同年3月の規制改革・民間開放推進会議の答申でも設置審査の重要性を述べ、審査方法の改善を提言している。設置の自由化一辺倒の方向に変化が生まれたようにも推測できるが、幸いにしてそうであれば、わが国に相応しい質の保証システムが構築されるよう、もう一度幅広い視点からの検討が行われるよう期待したいと思う。