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アルカディア学報

No.221

教材・授業の共有化―eラーニングの問題の考察―

私学高等教育研究所研究員 吉田 文((独)メディア教育開発センター教授)

1、eラーニングの未来を考える
 その普及が世界的規模であり、今後も右肩上がりの伸びが見込まれる、高等教育におけるeラーニングに関する研究は、進展の度合いやその背景の追認、あるいは、実践のための処方箋の開発が中心になっている。それに対し、本稿では、eラーニングの現状を踏まえて、未来へと視野を拡げたとき、そこに何が見えるのか、それも、現段階でメリットと認識されているものを、メリットとして今後も追求したとき何が生じるのか、といったスタンスに立って、eラーニングの問題を考察する。ここでのキーワードは、教材や授業の共有化である。
 2、教材や授業の共有化の実態
 ここ数年、インターネットの特性を最大限利用することによって、教育の公開、共有、互換の試みが進んでいる。いくつか具体的な動向をみてみよう。たとえば、日本でもよく知られているのはMITのOCW(オープン・コース・ウェア)であるが、これはMITのすべての授業のシラバス、講義ノート、教材などをウェブ上に無償公開するプロジェクトであり、現在の1100コースが掲載されている。それに続いて、アメリカでは、ジョンズ・ホプキンズ大学、タフツ大学、ユタ州立大学の3大学が各大学の教材を無償公開し、日本では6大学による日本OCW連絡会が、中国では156大学が加盟したコンソーシアムが結成され、さらに、ベトナムにおいてもOCWに倣った方式で授業の諸資料のウェブ上への公開が始まっている。
 また、アメリカではMerlot、ヨーロッパではAliadneといった、デジタル教材の共有化のためのコンソーシアムが結成されている。Merlotでは、提供された各種のデジタル教材について、学問分野別の編集委員会による審査を行い、それを経た教材をデータ・ベース化し、メンバー間で自由に利用する仕組みが構築されている。教材の質を一定に保つために審査というプロセスを置いているのであるが、現在、約8300の教材が登録され、それを自由に利用できるメンバーは1万5000人にまで増加した。
 これら授業を構成する教材の公開や共有だけでなく、単位を付与する授業そのものを公開、共有するという動きも生じている。ヒューレット財団が資金援助をしているオンライン・コース・レポジトリーというeラーニング・コースの図書館をつくるプロジェクトがあり、現在24コースが利用可能になっている。同様に、コミュニティ・カレッジにおける職業教育に関するeラーニングのコースを共有し、互換する仕組みであるSAILというスローン財団が支援するプロジェクトもあり、ここには80ほどのコースが登録されている。また、Learning Houseという企業は、eラーニング・コースの貸し出しや販売を事業の一つとして行っており、現在、3単位のコースを150ほど用意している。これらeラーニングのコースを、学位取得につながる正規の授業として利用している大学は少なくないという。
 3、二つのメリット
 eラーニングに関する、これら教育の公開、共有、互換には、二つのメリットが強調される。一つは教育的なメリットであり、他者の叡智を利用して教育の質を高めることができる、知の普及や進歩に貢献すると語られる。確かに、各種の優れた教材を共有して、再利用することで授業の質を高めることはできるだろうし、自機関にはない授業を導入することで教育内容を充実させることも可能だろう。これら教育的なメリットは、もう一つの経済的メリットと密接に結びついている。eラーニングの教材やコースの作成には、コストがかかる上、学内の誰もがそのための技術を持ち合わせているわけではない。eラーニングに対する需要があることは認めても、規模の小さい大学が、フル装備でeラーニングの教材やコースを作成することは困難である。したがって、それらを共有すれば、コストと技術という問題を解決することが可能になるのである。まさしく、一挙両得であるかのようにみえる。こうした意義が認められるからこそ、各種の財団はプロジェクトに多大な支援をするのであろうし、営利企業もその需要を見込んで参入しているのであろう。
4、問題の指摘
 こうした状況に対し、すでにいくつかの問題が指摘されている。たとえば、コストに関わる点でいえば、レポジトリー・システムといっても、そこに教材やコースがどれほど提供されるのかという指摘である。大学の授業は決して公開性が高いとはいえず、また、自分で作成した教材を他者に提供することに抵抗を覚える者も多いからである。もし、質の高い教材を十分に集めることができたとしても、それをどれほど多く利用されるのかという問題もある。というのは、自分の授業は自分で構成するために、異なる文脈で作成された教材の使い勝手は必ずしもよくはないだろう、ましてや、他者の作成した授業で自分の授業をすることは容易ではないからである。
 教育の質という点からは、部分的な教材の質は一定の保証ができても、それを利用した授業全体の質が高くなるとは限らないという批判があり、そもそも営利を目的とした企業が参入することに対して、質がどこまで保証されるのかという懐疑の目も厳しい。これらの指摘は至極もっともではあるが、それを防ぐ手立てはあるといってよい。
 5、伝統的な大学観との抵触
 こうした問題点を除去し、克服しつつ、教育的、経済的メリットを追求していったとき、そこに何が生じると考えることができるだろうか。まず、第一に、大学教員の役割の分化である。これまで、大学の教員は、一人で教育内容の決定、教授・学習過程、学習者の評価という役割を担ってきた。しかし、教材、授業の共有化が進めば、おのずからその役割は分化し解体していく。大学の教員が、他の教育段階の教員と異なる点の一つに、大学教員は教育だけでなく、それと併行して研究を行うということがある。それは、教育が専門領域の研究を通じて得られた知見と不可分に結びついたものだということを意味するのであるが、他者が作成した授業内容で教育を行うことで、その教育は一人の教員のなかで研究との関係を切り離されたものになるとはいえないだろうか。
 第二に、教材や授業の質の保証のために評価を行うことで、モデル・コースやモデル・カリキュラムのような方向で収斂していくようなことはないだろうか。科学革命以来、知は研究によって生産されるものとなり、進歩するものと認識されてきた。そこでは「解」は必ずしも一つではない。それを前提として、大学教育は統一的・定型的なガイドラインに縛られない自由を保証されてきた。優れたeラーニングの教材や授業がモデルとなって普及するとき、大学において教育の標準化という事態に至らないとも限らない。教育の共有や互換を進めることは、大学の多様性の排除に至る道筋につながっているのかもしれない。
 第三に、瞬時に世界を駆け巡るインターネットによって、教育の公開、共有、互換は世界的な規模で行われつつある。大学の学位の質保証は、多かれ少なかれ国家という枠の範囲の問題であるが、その枠では問題を処理しきれなくなる可能性もある。そのとき、異なる文化的社会的背景をもつ各国の大学教育を、一律の基準で評価したとするならば問題は大きくなるだろう。
 このように、インターネットの特性を利用した教育の公開、共有、互換などの試みは、伝統的な大学の枠組みに揺さぶりをかけるかもしれないのである。われわれは、新しい大学の姿としてそれを認知していくのか、それとも、守るべき大学の姿ではないとして回避しようとするのかを考えなければならないときが、いずれやってくるのかもしれない。これは共有や互換のメリットと、大学教育の多様性の均衡点をどこに設定するのかという課題であるが、メリットをメリットとして追求していった結果であるだけに、解を見出すことは容易ではないように思われる。