アルカディア学報
政策評価への取組を問う
2001年1月から施行された行政改革の一環として、中央行政官庁には所管の施策や事業の有効性、行政の効率化や透明性を確保し、今後の政策形成や意思決定に資するための政策評価制度が導入され、各省庁にもそれぞれ政策評価の担当部署が置かれるようになった。いかなる政策も、いったん正式に決定されれば、法的な強制力をもち、莫大な公費のコストがかかり、さまざまな方面に多大な影響を及ぼすし、簡単には変更したり、中止したりはできないものである。したがって、政策の適否や効果を事前および事後に、さらには経過中にも点検・評価し、その結果を政策形成や意思決定に反映させていくことは、資源の有効活用や国民の利益のためにもきわめて重要なことである。
このほどの省庁再編で各省庁の政策評価の元締めにあたる総務省では、今後三年間で評価の対象とするテーマを公表した(『朝日新聞』平成13年1月10日、『日本経済新聞』同1月11日付)。各省庁が扱う分野の政策はそれぞれの担当省庁が評価することになり、すでに財務省、経済産業省、国土交通省などがそれぞれ所管の事業のなかから今後行う政策評価の対象となり得るものを挙げている。総務省は、政府全体で取り組んでいる課題や、複数の省庁にまたがる問題を担当することになる。
ところで文部科学省は何を政策評価の対象としているのだろうか。他省庁ではそれぞれ政策評価についての取組みの一端がホームページで公表されているが、この論説の執筆段階では、まだ決まっていないのか、文部科学省のホームページには政策評価委員会の運営のための概算要求程度しか明らかにされていないようである。
筆者は数年前から政策評価の問題に関心を抱き、すでに高等教育の分野では文教政策の形成源であった審議会や私学政策、大学評価政策等々についての研究成果を公にしてきた(注1)。当私学高等教育研究所でも、昨平成12年9月の第2回公開研究会において、私学政策の点検・評価をテーマとしてとりあげ、この1月にその成果を発表したところである(注2)。
諸外国でもOECDの教育政策レビュウや英米の政策評価も行われてきている。かつての総務庁、通産省、科学技術庁等々の他省庁でも、政策評価に関する準備と調査研究は進められてきていたが、筆者の知るかぎりでは、文部省の政策評価に対する取組みは一向にみえてこなかったのである。もっとも、この問題に対する教育関係者や研究者の関心も高いとはいえず、いまだに反応は殆どないにひとしい。
ところで総務省が挙げている政策評価のテーマのなかで、文部科学省に関わりの深いものがある。それは留学生受け入れ政策である。21世紀までに10万人の留学生を受け入れようと、すでに1983年以来から国策として推進されてきた目標は、2000年までの時点で5万人余に届かないでいる。したがって、なぜ国を挙げて実施されてきた政策が達成できなかったのかという問題は、当然、政策評価の対象になってしかるべきテーマであろう。その真の原因が徹底的かつ科学的に究明され、その結果に基づいて適切な対応策や戦略が開発されないかぎりは、今後も実効ある留学生政策として期待通りの成果を挙げることは望めないであろう。
かつて文部省の留学生政策懇談会は、平成11年に第2次留学生受け入れ政策とでもいうべき政策提言を行っている(「知的国際貢献の発展と新たな留学生政策の展開を目指して―ポスト2000年の留学生政策」)。筆者は審議中途から調査協力者として参加を求められたことがある。その時点ですでに10万人受け入れ計画が破綻していることは明らかになっており、新しい提言をする以上はその原因についての実証的な原因究明と客観的な事実認識に基づいたうえで提案すべきだとの意見を表明したが、すでに時間がなく、結果的にはそうした評価・分析を行わずに提言とならざるを得なかった。当時はまだ政策評価という観念自体も理解されていなかったように思われる。
筆者の杞憂でなければ幸いであるが、教育という評価の困難な分野では、こうした問題はなるべく早くから時間をかけて研究しておくべきものだと考えるのだが、文部省も教育学界も問題意識が薄弱なように思われてならない。
文部科学省にはせっかく政策評価の部署ができたのだから、ぜひこれまでの、またこれからの文教政策のなかから、重要な政策をとりあげて、その今日的意義、有効性、将来性、投資効果、優先順位等々についての、政策評価を推進してもらいたい。たとえば、①年間、文教予算の26.5%を占め、約1兆5,000億円の一般会計の繰り入れを続けている国立学校特別会計の在り方はこれでよいのか、②機関補助を中心とする私学経常費助成の予算額や在り方は問題がないのか、③設置者負担の原則でもっぱら国立の大学や研究機関に公費を集中的に投資する現行の財政構造は、国全体の高等教育や研究の発展にとって望ましい在り方なのか、といった基本的な問題について、国民にも分かりやすい政策評価の結果を、できるだけ早く公表してもらいたいのである。莫大な公費を支出しての施策であるのだから、今後これを継続ないし発展しようとするのなら、当然、国民に対する説明責任があり、情報公開も必要であろう。もしこうした政策評価に及び腰の態度であり続けるとすれば、今後の国民の文教政策の推進に対する支持を得にくくなるばかりか、政策評価を巧妙に予算獲得に利用しようとする他省庁との競争にも不利にはたらく可能性もないとは言えまい。
もっとも、「予算獲得を目指す要求官庁に自分の存在意義を否定するような評価ができるわけがない」という冷ややかな声も官僚から出ているという(前述『日経』記事より)。確かに政策や行政を自ら評価することは当事者には無理であることは理解できる。いかなる評価も先輩や組織に対する批判につながりかねないからだ。しかしこんな消極的な考え方がいつまで通用するのだろうか。たとえば文部省は大学に自己点検・評価を要求した。そして大学自身による自己評価だけでは実効性に限界があるとして、今度は第三者評価機関としての大学評価・学位授与機構をつくって、「多元的」かつ「透明性」ある第三者評価を課そうとしている。そうであるならば、次には政策の発信元である文部科学省自身が行政評価の対象にされるのは当然の道筋ではないだろうか。
各省庁が内部で実施する政策評価の限界を克服するために第三者による評価が必要だという考え方に対しても、「政策の狙いや課題を最もよく理解しているのは各官庁」というのが霞ヶ関の反発だという(『日経』)。ここに官僚のお上意識と時代の流れに背をむける保守的体質がよく現れている。自分たちだけが真に政策を理解しているのなら、なぜ行政が評価の対象にならざるを得ないような状況になったのか。政策評価や行政評価はこうした官僚の無謬性の神話に対する国民の側からの批判でもあるのである。
(注1)喜多村和之編著:『高等教育と政策評価』(玉川大学出版部、2000年、280頁)
(注2)私学高等教育研究所シリーズNo.3『私学政策の在り方を点検・評価する――私大の助成と規制――第2回公開研究会から』(2000年1月、58頁)