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アルカディア学報

No.209

高等教育政策のバランスを―トップの育成と全体の底上げ

帝京科学大学顧問 瀧澤 博三

《国大協のリーフレットを読む》
 国立大学協会が「国立大学の存在意義」に関する調査研究の成果をもとに編集したとされる「21世紀日本と国立大学の役割」というリーフレットがある。この中で、国公私を対比したデータを挙げて縷々述べられていることは、国立大学が、(1)知識・技術の創造拠点として、(2)中核人材の養成拠点として、更に(3)社会的な寄与において、重要な役割を果たしてきていること、そして、新しい知識社会の構築が大きな課題となっている今日、国立大学のこのような役割がますます大事であるということであり、これについての国民の理解と国立大学への支持を求めている。
 法人化によって政府の直轄的な保護下を離れ、競争的な環境に置かれることになった国立大学が、その維持・発展のためにまずすべきことは、国民の理解と支持を得ることだということを強く意識してのことであろう。社団法人となった国大協の意識の変化が伺われるところである。しかし、私学の側から見れば、その記述にはいくつか違和感を覚えるところがある。
 現状を言えば、私学の中にもいろいろな分野でトップレベルにランクされる大学も多いし、国立大学といっても学生確保に苦労し、多分に質の問題を抱えている大学も多い。国立大学も一枚看板ではない。国立、私学それぞれに平均化すればリーフレットのデータどおりであり、国立大学の中核としての位置は大局的に見れば否定できないが、平均化した国私の比較は実態をゆがめる部分がある。しかし違和感を覚えるもう一つの大きな問題は別のところにある。
 国立大学は日本の高等教育の水準を維持する上での中核的な役割を果たしており、それがこれからも国立大学の基本的なミッションである。リーフレットの言わんとすることは、こういうことだと思うが、これは日本の高等教育全体を視野に入れない少々飛躍した考えではないだろうか。国立大学の中核的な地位は、国立大学を重視した国の政策運営の結果なのであって、その政策は同時に、私学への放任政策と裏腹で不可分の一体となっているのである。政策の結果としての現在の中核的地位を将来にわたっての国立大学のミッションと考えることが是か非か。それを論ずるのであれば、その前に国立重視・私学放任のこれまでの2元的な高等教育政策の是非を論ずる必要がある。

《政策の2元的分裂がもたらしたもの》
 高等教育の整備と維持を国の責任事項とし、国立の大学等の設置・運営を中心として高等教育政策の実現を図ってきたのが、戦前までの国の政策運営の基本であった。戦後の民主化された行政運営の下においても、高等教育政策における国立中心主義の実態はさほど変わらず、一方で私学は、「私学の自主性」の理念も加わって行政からは距離を置き、市場寄りの運営に委ねられるようになった。こうして、国立大学を中心とした政府直轄的な高等教育政策と市場任せの私学政策という2元的に分裂した高等教育政策が続くこととなった。
 60年代からの高等教育への需要拡大期における政府の対策には、進学需要に応ずるための量的拡大は極力私学に期待し、国立大学は質を維持して行こうという意図が表れており、国立大学と私学への対応の違いが明瞭であった。
 1966年からの志願者急増に備えて、文部省では前年の65年に学生増募の3か年計画を発表しているが、その初年度を見ると、私学には定員増3万1000人を見込み、これに詰め込み率を勘案して実員ベースでは5万220人の増を見込んでいる。これに対する実績を見ると、定員では2万7156人の増であるが、実員では6万2870人の増となった。私学については詰め込みを公認し、むしろ期待していたとさえ言える。一方、国立大学については4000から6000人の増を予定し、理工系では主として学科等組織の新設・改組で対応するなど、従来の学生/教員比のレベルを落とさないよう措置をしていた。
 これは1例であるが、こうした国立重視の高等教育政策の結果として、今の国立大学と私学の実態がある。国立大学は設置者である国から多額の公的資金を受け、わが国の高等教育の中核としての地位を築いた。一方、私学は少ない公的資金を受け経費の大半を学生の納付金に依存しつつ、大衆化の要請に応えて規模を拡大し発展してきたが、その半面として、教育の理念においても質においても1つの制度に収まりきれない多様性を内包し、様々な矛盾を抱え込むようになった。今日私学は大学・短大の75%のシェアを持っており、私学の抱える問題は高等教育全体の問題と考えなくてはならない。これまでの国立重視、私学放任の2元的な高等教育政策は、高等教育に様々な問題を累積しており、もはや問題の引き伸ばしは許されない段階に至っていると思われるのである。2点ほど問題を挙げておきたい。
 大学の理念の喪失:自由化・規制緩和を基調とする行政改革の流れに沿って進められてきた設置審査の簡素化、準則化によって、大学評価の基準から大学の理念的な枠組みはほとんど失われ、それに志願者減を意識しての無理な学生募集対策が加わって、いまや大学とは言っても中味は何でもありのボーダーレス状態になっている。このため教育の質についての大学相互の信頼性は損なわれ、教育内容の等価性、互換性の成熟は妨げられている。大学のユニバーサル化、グローバル化に伴って、評価の時代といわれ、質の保証システムの整備が急がれているときに、このままでは日本の大学は高等教育の世界的な潮流から取り残されるのではないだろうか。
 国私格差への疑問:大衆化、ユニバーサル化に伴って、大学教育は、公共的な役割より個人的利益のためとの観念が強くなり、いわゆる大学の市場化、サービス化が進んでいる。それとともに、学納金は教育サービスの対価とみられるようになり、設置者別による大きな格差は説得力を失っている。とくに法科大学院のような特殊な個別化された制度の中で国公私が競うようになると、学納金格差の非合理性は関係者に極めて端的に意識されるようになる。法科大学院の場合は、私学への特別な財政支援でしのいだが、今後同様のケースが広がるものと予想される。さらに、国立大学が法人化されて私学的形態に近づき、自律的な経営努力を求められるようになったことは、学納金問題だけでなく、大学運営全体について公費負担の国私格差の理由を説明困難にする。私学側から起こっているイコールフッティングの声にはいずれ何らかの対応をせざるを得なくなるだろう。

《政策のバランスを》
 知識基盤社会といわれる今日、わが国が国際競争力を維持するためにも、大学の研究開発力や高度人材養成への政府、産業界の期待が強まっており、これを背景にして、最近の大学政策は世界レベルの研究拠点大学の育成や大学院における高度人材養成に焦点化している感がある。いかに世界トップクラスの大学が形成されたとしても、大衆化を担っている多くの大学が大学としてあるべき水準を維持できなければ高等教育全体の発展はないし、日本の高等教育に対する国際的信頼を保つこともできない。今は高等教育政策が全体のバランスを失っているように思われてならない。
 現在、財政構造改革が進められている中で、大学に対する財政支援の形を基盤的なものから競争的なものへと切り替える方向が続いている。しかし競争的支援は強者をより強く弱者をより弱くするだろう。大学全体の底上げとは正反対の効果である。底上げの支援は対象が多数であり、政策の色合いは地味で基盤的であり、かつ経費は多額を要する。競争的支援は少数を対象とし、支援の意図や効果は分かりやすく、かつ経費は弾力的である。財政困難の折には競争的支援が向いているのかもしれないが、それで日本の高等教育の将来を誤ることはないのだろうか。