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アルカディア学報

No.199

グランドデザインとユニバーサルアクセス―第22回公開研究会の議論から

帝京科学大学顧問 瀧澤 博三

 年度末ぎりぎりの3月30日に、本研究所主催の第22回公開研究会が開催された。この1月28日に出された中教審答申「我が国の高等教育の将来像について」をテーマとし、元文化庁長官で国立科学博物館館長の佐々木正峰氏と東京大学大学院教育学研究科の金子元久教授のお2人をお招きし、ご講演をいただいたが、年度末の気ぜわしい時期にもかかわらず100名を超える多数の方々に熱心なご参加を頂いた。
 研究会の冒頭に、問題提起という意味で、私から①今回の答申がグランドデザインをテーマとした背景、理由は何か、②グランドデザインとして期待されていたことは何か、③答申ではグランドデザインをという要請にどのように応えたか、などについて私なりに整理したところを説明させて頂いた。
 佐々木館長は、私学部長、高等教育局長のご経歴もあり、また今回の中教審の審議にも参画しておられ、その深いご見識をもとに、答申の意図するところについて的確なご説明を頂くとともに、今後の政策課題としてどのようなことが残されているか、またこの答申を受けて各大学はどのような対応を期待されているかについて示唆に富んだお話を伺うことができた。
 次いで、金子教授は、高等教育の発展段階として大衆化の後に続くものとしては2つの可能性があり、1つは大学・大学院への進学率が一段と拡大する超大衆化であり、もう1つは学習形態が個別化・多様化し、教育期間と職業との関係が流動的になるユニバーサル化であるとし、このようなユニバーサル化は政府規制の後退と高等教育の市場化を必然的に伴うものだと指摘された。これは「ユニバーサル・アクセス」をキーワードとしている答申の読み方として非常に重要な視点を提供するものだと思う。
 以上ごく概略を述べたように、当日の講演者の答申へのアプローチは三者三様であった。そのことは答申の多角的な理解のために役立ったかもしれない。しかし振り返って思うのは、やはり答申のグランドデザインとしての焦点の分かりにくさである。規制改革の外圧に主導されて方向感覚を喪失した高等教育改革の理念を建て直し、その将来像を見えるものにしたいというグランドデザインへの期待を背負った答申であったが、答申を受け取った関係者の反応はいささか醒めた雰囲気であったように思える。何よりもこの答申には、未来への期待をかけて熱っぽく議論を交わすべき「将来像」は見当たらなかったのではないだろうか。

《グランドデザインとしての「ユニバーサル化」》
 しかし考えてみれば、この時期に中長期的な展望を持ってグランドデザインといえるような高等教育の将来像を描き、それへ向けての施策の体系を提示するということはもともと至難のことだったのかもしれない。そのことはとくに金子教授の所論を聞きながら思ったことである。
 18歳人口を基準とした大学・短大進学率は、60年代から70年代中頃までの大拡大の時代、以後90年頃までの調整期を経て、その後再び上昇に転じて1999年には49%に達したが、その後ここ数年は頭打ちの状態が続いている。このあとの変化として、金子教授によれば日本の場合は超大衆化から転じてユニバーサル化に向かうであろうとされる。この点の判断はグランドデザインを描く上で決定的に重要なポイントであろう。
 答申では、高等教育の量的側面での需要はほぼ充足されており、これからは社会人を含めた多様な学習者の個別の需要に対応できるような学習の機会と環境を整える事が大事だとし、学習機会に着目した「ユニバーサル・アクセス」の実現が課題だとしている。しかし、「ユニバーサル・アクセス」の実現を将来像設計の中核的な理念とするまでにはいたらず、単にユニバーサル化を量的面だけでなく教育の内実を伴ったものにするよう主張しているにとどまる。その点、審議の中間段階として昨年9月に公表された「審議の概要」では、「3 我が国高等教育の中長期的展望」の章の副題は「ユニバーサル・アクセスの時代の高等教育の将来像」とされており、「ユニバーサル・アクセス」を将来像の中核理念とする意図が見えていた。ところが「答申」では、目次中の表題のレベルでは「ユニバーサル・アクセス」という言葉はすべて消えている。
 もう1つ、「審議の概要」と「答申」との違いで重要な点がある。「答申」では高等教育の将来像についての基本的考え方として、「高等教育計画の策定と各種規制の時代から将来像の提示と政策誘導の時代への移行」を宣言しているが、その理由としては「設置に関する抑制方針が基本的に撤廃されたこと等により、進学率の指標としての有用性が減少し、主として18歳人口の増減に依拠した高等教育政策の手法はその使命を終えた」ことを挙げている。この宣言は、高等教育に対する国の責任と政策の基本にかかるものであり、グランドデザインとして最も大事な論点であるだけに、この理由づけは大変に納得しにくい。抑制方針の撤廃を理由とするということは、高等教育政策論の放棄と外圧順応を意味するのか。あるいは、高等教育政策論として設置の自由化,準則化を今後とも進めようとするのか。なぜ進学率の指標だけが問題なのか、政策判断のための他の指標はどうなのか。いずれにしても、答申の中心となるべき論点に対してこの理由付けはあまりに安易で説得性が欠ける。
 ところが、「審議の概要」ではこの理由付けが全く違うのである。そこで挙げていたのは「ユニバーサル・アクセスの時代には、18歳人口に対する進学率の指標としての有用性が徐々に減少していく」ということである。学習の形態が多様化し、非伝統的学生が増えてくればその分18歳人口の進学率の意味が減少することは当然であり、分かりよい論理である。それがなぜ「答申」のような形に修正されたのだろうか。「審議の概要」での「ユニバーサル・アクセス」のグランドデザインの中核概念としての扱いは、「答申」に至って前記のように格下げされた。これに伴う無理な修文の結果なのだろうと推測するしかない。いずれにせよ「答申」は、ユニバーサル・アクセスを将来像設計の中心に置くことを避けたと思われるが、それは何故だろうか。
 これまでも政府は生涯学習化とか往復型社会といったキャッチフレーズでユニバーサル・アクセスの考え方を推奨し、制度の柔軟化、規制の緩和によって各大学の対応を誘導してきたが、いまのところ社会人学生やパートタイム学生の大幅な増加は急には見込めないし、大学の就職部など現場からの感覚では、企業の採用行動も言われているほどには著しい変化がない。ユニバーサル・アクセスが今後どのようなペースで進展するか判断は難しいところであり、少なくとも「審議の概要」のように「だからこれまでの政策手法は終焉を迎えるのだ」とまで言い切るのは無理があると思われる。
 それだけでなく、仮にユニバーサル・アクセスの実現を前提にして将来像を描くとすれば、これまでのような柔軟化、規制緩和だけではすまない。学習形態の個別化、流動化は高等教育機関相互の境界を曖昧化しシステム自体の流動化をまねく。教育サービスの評価と選択には政策より市場主義が優位に立ち、更にこうした変化は財政支援のあり方についても根本的な変革を迫ることになろう。こうした大変革をいま将来像として描けるだろうか。

 《グランドデザインの中心は何か》
 ユニバーサル・アクセスが格下げされたとすれば、次のグランドデザインの中心はなんだろうか。さしづめ「大学の機能別分化」かもしれない。答申のこれについての説明は大変にトゲが少なく、それだけにかなり評価する向きがあるようだ。しかしこれが高等教育の「構造化」の戦略だとすれば、余りにも弱々し過ぎないだろうか。臨教審以来、大学の自主的選択による個性化・多様化によって、自ずと高等教育に多元的な構造が形成されることが期待されてきたが、このような戦略で構造化が生まれる萌しはまだない。効果的な財政誘導が不可欠だと思うが、答申には明確な戦略はない。
 いま「大学」という制度は余りに過大な多様性を抱え込んでおり、どんな改革の議論もその全体に通用することはない。今後評価システムの進展と連動して設置認可の意味・役割をどのように考えるかが大きな課題になってくると思われるが、共同体的性格の強い学術的大学と企業的性格の強いサービス産業化した大学とに同じ認可制度の考え方を適用することはできるだろうか。新制大学の発足以来連綿として続いている構造化の課題は依然として回答のないままに、問題の難しさは増していくばかりのように思われる。