アルカディア学報
大学経営の専門職活かせ―私立高等教育機関の将来像
《大学は変わった》
平成17年度を迎えた。年度始めは何かと忙しい。入学式、学生へのオリエンテーション、授業の開始、教職員の異動に伴う事務など次々と日程をこなしていくうちに、あっという間に桜の季節も過ぎてしまいそうである。しかし今年度の始めを、関係者の多くは特別の感慨をもって迎えられたのではあるまいか。一口にいえば、それは「大学は変わった」ということであろうか。過去15年間の大学改革の激動の中で、これまではっきりとは見えていなかったものが次第に明らかになり、それとともに大学はこれから本当に大変になるという将来が見えてきたからである。
グローバル化の中での大学評価は、これまで拡大を続ける国内の巨大学生マーケットを相手に、大学や教員の好きなように、つまり生産者の論理で経営を続けてきた我々関係者に対して、他国の論理、消費者の選好、社会の要請を真摯に受け入れざるを得ないという厳しい冷水を浴びせている。これらにどう対応するかは、各大学の将来をかけた重い課題となるであろう。
さて、本年1月に公表された中教審答申「我が国の高等教育の将来像」は、18歳人口の減少の中で大学・短大の収容力すなわち入学者数の志願者数に対する比率が、平成19年度には100パーセントに達すると予測している。これはこれまでの予測に比べて2年も前倒しであり、18歳人口の大学・短大志願率が思いのほか伸び悩んでいることと関係がある。関係者はこのことの持つ意味を深く考えて、学生にとって魅力ある高等教育機関づくりに一層励まなければならない。前述のような生産者の論理だけでは済まない問題なのである。
同答申では、「学校の存続自体が不可能となることもあり得る。その際には、特に在学生の就学機会の確保を最優先にした対応策が検討されるべき」であるとしているが、先日このことを受けて文部科学省の検討チームが「経営困難な学校法人への対応方針について」と題するレポートを公表し、経営分析の実施と学生に対するセーフティネットの構築の方針を明らかにした。大学・短大の破綻というケースがいよいよ現実の視野に入ってきたといえよう。
《一難去ってまた一難》
中教審答申は、18歳人口が平成21(2009)年度に約121万人になった後は、平成32(2020)年度まで約120万人前後で推移するとしている。これを読んだ関係者の中には、この時期を耐えれば、再び若者の数が増えてくるのではないかと期待する向きもあるかも知れない。しかし、中教審答申はその問題を巧妙に避けている。実は政府(厚労省人口問題研究所)の予測では、平成62(2050)年には18歳人口が約80万人程度にまで落ち込むことが示されているのである。つまり平成32年度までは、厳しいがある種安定感のある時期であり、本当に厳しい時代はその後にやってくるのである。一難去ってまた一難と心得なければならない。その厳しい時代に耐えるには、それまでに自らの大学の体質を抜本的に改革しなければならないだろう。このような長期の見通しは、とかく現実感がなくて問題を先送りしがちであるが、将来苦労するであろう経営後継者のために、現世代の関係者が抜本的改革の下準備くらいはしておく必要があると考える。
このような問題を考えていると、高等教育というものはいかにも長期不況産業であるかのような印象を関係者に与えるかも知れない。しかし実際にはそうではない。またそうあるべきではない。それはなぜか。なぜなら21世紀は「知識基盤社会」(knowledge-based society)と呼ばれる新しい社会・経済・文化システムに移行するといわれており、その中で大学が主導的な役割を果たすことが期待されているからである。
大学が主導的な役割を果たすというのは、この知識基盤社会の中で、知識を創りだすこと(研究)、それを次世代の人間に伝えること(教育)、そして社会の隅々に普及させること(社会貢献)の各々の機能は、非営利かつ自主自律の大学でなければ果たすことが難しいからである。しかしその役割を果たすことが期待されているからといって、大学がこれまでと同じようで良いというわけには行かない。改革に成功した大学のみが、そのような期待に応えることができると考えるべきである。研究や教育の体制や内容にも抜本的な改革が加えられるべきなのである。
これまで我が国の多くの大学では、若者を相手にして将来の職業とは必ずしも関係が深いとはいえない教育をし、また外国と競争し合う先端的な研究だけではなく、彼の国の進んだ研究を我が国に取り入れ紹介することも研究と称してきた。教養教育と専門教育とのバランスも、所詮はアカデミズムという狭いコップの中の嵐であった。これからの大学では、若者だけではなく社会人学生も含めて、職業に必要な知識・技術を大学ならではの特質を活かしつつ提供していかなければならない。つまり教養教育、専門教育に加えて職業教育の要素を大幅に取り入れていかなければならないであろう。知識基盤社会に対応した高度専門職業人教育もその一つである。さしあたり、法科大学院やビジネス・スクールなども最高級の職業教育と見なすのが、ことの本質を理解する上で重要である。
《知識基盤社会に相応しい将来像を》
先述の中教審答申では、これからの高等教育の方向として、多様な機能と個性・特色の明確化を唱っている。その例示は必ずしも体系性があるとは思えないが、世界的研究・教育拠点、高度専門職業人養成、総合的教養教育などさまざまな切り口を示しているのは参考になるだろう。これを大学の種別化と批判することは易しい。しかし、かつてのようにすべての大学が画一的な大学像を追求することは、非効率でもあり、また学生の選好や社会の要請に応えるものでもない。我が国高等教育の全体像を念頭に、各大学・短大は、これらの切り口を含めて、それぞれがもっともふさわしいと考える機能を将来像の焦点に据えて発展を図るのがよい。
しかしこのことは、各校の競争を軽減するものではない。競争の観点が限定される中でかえって競争の先鋭化が起きるだろうからである。競争の良し悪し、とくにその弊害についての心配はあるが、少なくともこれが学生サービスや社会貢献の向上につながるならば歓迎である。
ただし、そのためには大学経営には格段の工夫が必要である。かつてのような教授会主導の素人経営では済まなくなってくるだろう。適時適切な経営判断を行うためにも、理事長・学長のリーダーシップとそれを支える専門職的経営人材が必要になる。またこれは、教員が教育・研究に専念して、より良い教育を提供するためにも必要なことではないかと思う。国立大学では法人化後、教員が大学経営の実務に巻き込まれる機会が多くなって私には問題に思えるのだが、より自由度の高い私学にあっては、大学経営の専門職的人材を大いに活かしつつ、各校の特色に沿った大学経営をしてもらいたいものである。