アルカディア学報
高等教育ユニバーサル化―「グランドデザイン」への3つの論点
日本の高等教育のグランドデザインを描くことをめざした中央教育審議会の答申『我が国の高等教育の将来像』が発表された。2005年という時期に、こうした答申がでることに何か象徴的なものを感じる。
《大衆化の時代の終焉》
戦後の日本の高等教育の発展をふり返ってみると、1950年代に新制大学制度が定着したあと、1960年頃から高等教育の大衆化がはじまったのだった。その後の発展はほぼ15年ごとに3つの時期にわけて考えることができる。
第1期は1960年から1970年代中頃までで、いわば「大拡大」の時代だ。4年制大学就学率は1割程度から一気に3割近くに達し、日本の高等教育は少なくとも量的にはエリート段階から大衆化段階へと達した。第2期はその後1990年頃までの「調整期」だ。私立大学への経常費補助を契機として、大都市での大学新設が抑制され、他方でそれを背景として既存の私立大学は授業料を上昇させ、入学者数を微減させた。結果として就学率はやや下降した。いわば急拡大が生じさせた問題を政府の市場への介入(規制と補助金)で緩和させた時期であったといえよう。
それに続くのが第3期の1990年から2005年までだ。バブル経済の崩壊とともに第2次ベビーブーム世代の後に急速に18歳人口が減少し、結果としてそれまで抑制されていた大学進学率は急速に上昇した。2000年代に4年制大学進学率は約4割、短大を含めて5割、専修学校を加えて7割となった。しかし進学率の上昇の勢いは明らかに落ちており、ほぼ踊り場に達したとみることができる。大衆化の時代は終わったようにみえる。
《高等教育のユニバーサル化》
ではこれから何が始まろうとしているのか。個人が大学に進学しさらに就職する過程を「進学・就職キャリア」と呼ぶとすると、大衆化の時代は進学就職キャリアのうち、大学進学から職業へと結ぶキャリアをたどる人の数が同世代人口の中で大きく拡大した時代だった。その後には二つの可能性があると考えられる。一つは「超大衆化」だ。大学進学率はさらに拡大し、さらに大学院進学率が拡大して、これまでの大学進学にかわって大学院が重要な学歴資格となる。もう一つの可能性は「ユニバーサル化」だ。それは単に進学率が上昇するのではなく、個人と高等教育との関係が大きく変化していくことを意味する。大学進学の時期も多様となり、いったん進学した人も中退や休学が珍しくなくなるかわりに、再入学も普通になる。さらに大学を卒業した人の間でも、大学や大学院に通う人も多くなる。超大衆化と決定的に異なるのは、個人の進学就職キャリアが多様化し、教育機関と職業との間が流動的になる点だ。
後者のユニバーサル化は、アメリカにおいては1970年代後半から始まった。日本の場合は大衆化の勢いが強く、それが前述のようにこれまで続いてきた。いわば超大衆化が進むかにみえた。韓国や台湾では大学院が就職学歴する傾向があり、超大衆化がさらに進んでいるとみることができる。しかし私は日本ではいま、超大衆化から、ユニバーサル化への転換が生じつつあると思う。その意味で、今回の中教審答申が今後の日本の高等教育の課題として「ユニバーサル・アクセス」の時代への転換と位置付けているのはきわめて重要だ。
《グランドデザインに求められるもの》
しかし今回の中教審答申が、それ以上に何らかのグランドデザインを示しているかといえば、必ずしもそうはいえないのではないか。大きくいえば考えるべき問題は三つあると思う。
第1は学位と職業資格の問題だ。ユニバーサル化の進行は前述のように個人の学習行動がいわばコマギレになり、また多様化することを意味している。必要とされる教育内容もきわめて多様化し、教育形態が学習者の要求に応じて柔軟であるとともに、新しいニードに応えた教育内容が早く提供される必要がある。他方で多様化した個人の学習経験をどのように評価し、また教育の質を維持するかが重要な問題となる。そのためには入学資格、そして卒業に際して与えられる学位、あるいは一定の課程を修了したことを証明する修了証明などが、透明で論理的な体系によって位置付けられていなければならない。
こうした視点から、ここ10年ほどの高等教育政策を振り返ってみれば、その基本は大学への入学資格、教育条件・内容、卒業資格などについての一連の規制緩和にあった。とくに2003年の学校教育法改正は、設置審査をいわば形式化し、事後的な評価によって大学の質的水準を維持する、という方向での転換を狙ったが、その具体的な方法の設計に大きな誤りを冒した結果、大学の質的水準維持はいまほとんど形骸化している。他方で学位や就学証明のシステム化についてはこれまでほとんど何も検討が行われていない。新しい秩序がどのような形で形成可能なのかが早急に議論されねばならない。
第2は大学教育の質的向上だ。ユニバーサル化にともなって、より個人的なニードに密接に関わる教育内容への需要が顕在化し、高等教育機関はそれに対応することを求められるとともに、そこに新しい市場を見出すことになる。しかしそれは高等教育全体がより「実用的」な内容に重点を移すことを意味するのではない。逆説的だが、そうした知識への需要が増えるほど、勉強のしかたや、論理的な考え方、人とのコミュニケーションといった基礎的な能力の重要性は高くなるのである。そして、そうした能力はむしろ古典的な、それ自体は直接に実用性に結びつかない、大学教育の中ではぐくまれる。しかしそれは言うまでもなく、これまでの大学の専門教育に回帰することを意味するものではない。基礎的な能力を形成する大学教育をどのように構築していくのか、それを促すためにどのようなメカニズムが必要なのかについて具体的な議論が必要である。
第3は費用負担の問題である。もともと日本の高等教育は国私間の負担格差が大きな問題であり、国私間の「イコール・フッティング」を主張する声も強かった。さらにユニバーサル化にともなって学習時期、場所が断続的、流動的になれば、社会は高等教育機関に対するよりも、個人に対して援助を与えるべきだという議論も生じる。高等教育において「バウチャー」制度を導入するという議論が経済財政諮問会議で行われているというのもこうした背景からであろう。しかし政府支出の増加が困難な一方で、前述のように高等教育機関の一律的な水準維持が実質的に困難となり、他方で中核となる大学教育の質的な向上が長期的にきわめて重要な意味をもつという状況の中で、そうした選択が具体的にどのような結果をもたらすのかを十分に検討しておく必要があることは言うまでもない。また現行の奨学金制度についても再検討が必要だ。
これらの三つの点はいずれをとっても、高等教育の理念に係わるとともに、様々な利害や政治的な意味あいももっており、その解決は自明ではない。しかし、そうした議論をさらに一段進めなければ、グランドデザインを描くことにはならないのではないか。