アルカディア学報
高等教育政策と私学
私学高等教育政策の軌跡を辿る(下)
臨教審答申から大学審議会「21世紀の大学像」答申へ:臨教審の審議には新保守主義の立場からの自由化論の影響が強く、法的規制の強化を予想させる「種別化」は影を潜め、内容的な個性化、多様化が主流となった。多様化論議はハードなものからソフトなものへと転換した。高等教育の大衆化と高度化の要請という二律背反的な課題の重要性と困難性は、高等教育の国際化の進展もあり益々大きくなったが、臨教審の答申を受け止めた大学審議会でもこの問題への対応は曖昧だったと言わざるを得ない。
「21世紀の大学像」答申では、大学の個性化・多様化の例示として「最先端の研究を志向する大学、学部中心の大学、大学院中心の大学」等を挙げているが、これは単なる個別大学の問題ではなく、大学の性格による類型というべきものである。これを個々の大学の多様化、個性化の問題として扱っているのは、高等教育の構造的な多元化の必要を意識しつつも、強いてその問題に言及することを避けているようにも思えるのである。
中教審「我が国の高等教育の将来像」(平成16年末中間報告):中長期的観点から高等教育のグランドデザインを描いた中教審大学分科会の審議結果が中間報告として昨年末公表された。ここでは大学の機能として、(1)世界的研究・教育拠点、(2)高度専門職業人養成、(3)幅広い職業人養成など七項目を例示し、各大学は自主的にそのいくつかを選択し、その結果が各大学の個性・特色になる、としている。この考え方によれば、大学の個性・特色は常に可変的であり固定的な類型による構造化は生まれない。どのように多様化された高等教育の全体像を目標とするのか、また「政策的誘導」の目標と手段は何なのか、「機能別分化」によって現状をどう変えようとしているのか、いずれも不分明なことが多い。
多様化論議の行方:38答申以来の多様化論は制度論を放棄し教育内容論に変質しつつも、なお柔らかい類型による多元的な構造へのこだわりを持っていたように見える。大衆化と高度化という高等教育への要請の二面性に対して、個々の大学の自主的な個性化だけでは有効な回答にはならず、構造の多元化による何らかの役割分担が必要であることは誰でもが感じていることなのであろう。にもかかわらずこの問題は具体的な政策手段を持てないままに曖昧にされているように見える。高等教育の過半を占める私学と行政との間に、私学政策への責任を共有できるような新しい関係が生まれない限り、多様化論議のこれ以上の進展は望めないのではないだろうか。
3. 需給の調整
高等教育機関の規模・配置:私学高等教育政策を支える二つの柱が設置認可制度と私学助成制度である。設置認可制度には、質的水準の確保と大学の規模・配置の調整の二つの機能がある。前者の目的のためには基準適合性が判断基準になるから、認可は行政庁に裁量の余地のない羈束行為と解することができるが、需給調整の目的を持つとすれば必要性の判断が要るから裁量行為と見なければならない。
戦後、学校教育法と私立学校法によって新しい設置認可制度ができたが、この認可が裁量行為か羈束行為かについては当初から解釈が分かれていた。私学の自主性を尊重する立場から現在では行政庁に裁量の自由のない羈束行為であるとする説が有力ではあるが、私学行政の最大のツールである設置認可制度の性格に関する解釈の不安定性は、私学高等教育政策の不安定性に繋がる面もあったと思われる。
現在ではほぼ通説であろうと思われる羈束行為説に立てば、高等教育の規模・配置に関する計画というものは成り立つ根拠を失い、絵に描いた餅にしかならない。これに実効性を持たすための一つの道として、46答申では、政策への協力を条件とする契約的な私学助成制度に移行することによって、政府と私学との新しい関係を築くことを提言した。もう一つの道は、昭和50年の私学振興助成法制定の際に私立学校法附則を改正し、50の時限措置として設置認可を裁量行為に転換したごとく、法的な措置をとることである。46答申後、新しい助成制度への政策的努力は行われなかったし、第二の道については、この時限措置を延長する試みがあったが実現しなかった。規制改革、市場主義が幅を利かす現状では難問ではあるが、第三の道はないのだろうか。
「我が国の高等教育の将来像(中間報告)」では、これからは計画策定の時代ではなく「将来像の提示と政策誘導」の時代だとしている。一方で、「大都市部における過当競争や地域間格差の拡大」に憂慮を示しながら、また法科大学院の過剰供給が法曹養成制度の改革の根底を覆しそうな事態を招いているのを見ながら、なぜ国の政策は「一元的な調整」から身を引き、「情報提供」程度にとどめようとするのだろうか。
4. 質的水準の維持
設置認可制度の簡素化・認証評価システム・私学への段階的是正措置:この質的水準維持のための一連の制度改正は、総合規制改革会議の結論を殆どそのまま受け入れて、教育界における十分な議論を経る暇もなく性急に実施に移された。そこに流れる理念は規制改革、市場原理、競争原理、効率性など構造改革の理念であって高等教育政策の理念はあまり省みられなかったとしか思えず、その結果は今後の私学高等教育政策の運営に多くの問題を残した。
設置認可制度の大幅な簡素化は設置認可の性格や役割についての十分な議論なしに規制改革に偏った視点で進められてきたように思われる。そのことが、新しい評価システムの準備も整わないうちに設置認可の簡素化だけが先行するという結果を招き、大学の質の保証に対する不安の声が高まっている。「我が国の高等教育の将来像(中間報告)」が、改めて質の保証のための設置認可の重要性を説いているのも今更の感を免れない。
質の保証のための制度として設置認可とセットになるべき事後の評価システムとしては、これまでアメリカのアクレディテーションをモデルとした自主的な第三者評価制度が検討されてきたが、平成15五年の学校教育法改正によって俄かに国公立、私立の区別なく、政府による認証制度の下に組み入れられることとなった。
またこの改正法によって、法令違反があった場合、公私立大学についても、国立と同様に、改善勧告、変更命令、廃止命令などの是正措置を段階的に取れるようになった。ここでは、法人化したとはいえ、依然として維持・管理については国が責任を負っている国立大学と自主性を生命とする私立大学とを殆ど区別していない。これらの措置は総合規制改革会議の答申を下敷きにしているが、そこに伺える理念は行政改革的な「効率性」で一貫しており、私学の自主性の理念への理解は全く見られない。「政府と私学との関係」という私学高等教育政策のもっとも基本とする重要な問題が、その本来的な観点からではなく、規制改革という一面からの見方だけで大転換を強いられている。私学の自主性の理念は本筋を見失って全く不透明になった。
今の内閣の構造改革の路線は国民の一人として大いに支持したい。しかし個別の分野で深刻な理念の対立・抵触が生ずることは避け得ないことであり、相互の理念を理解しあった上での真剣な調整の努力が必要であろう。外部からの一方的な理念の押し付けによって大学改革の流れがゆがめられることは残念なことであるが、問題はそれだけではなく、私学高等教育政策の理念の薄弱さ、行政の私学へのスタンスの曖昧さにもそれを許した原因があることを省みる必要があるのではないだろうか。(おわり)