アルカディア学報
21世紀に突入した高等教育 ――希望と絶望の狭間の時代
新しい世紀に入ったからといって、特別世界が一新されるわけではないが、人間は改めて出発したり終えたりするきっかけやけじめを必要とするようだ。「21世紀の」と冠したキャッチフレーズはあまりにありふれているが、年始にあたって、これからの高等教育の行く末についての卑見を述べさせていただく。
この世界は一寸先は闇であること、政界のみならず教育界もかわりはない。変化の激しく、先行き不透明といわれる現代に、あえて未来を語る者は、現実によってただちに裏切られることや、その発言の責任を問われることを覚悟しなければならない。そこで未来学者は沈黙し、実証主義学者は後追いの分析に集中することによって身の安全を守ろうとする。
しかしこと教育に関するかぎり、子どもや人間のこれからの成長発達や変化にかかわるものだから、われわれなりに未来を、少なくとも今後の時代の方向性を模索する責務から逃れることはできない。ドラッカーは学校の使命とは、子どもになにごとかを学ばせ、それを10年後に使わせることだ、と言っている。そうだとすれば、教育関係者は少なくとも若い世代の10年後はどうなるかという予測を踏まえた教育を常に考えていなければならない、ということになる。
しかしそのような10年後を見通すなどということが、果たして可能なのだろうか?、再びドラッカーによれば、およそ人間や社会の未来を予測することなどは不可能であまり意味がないことだとする。ただし、①すでに起こっていることであって、②それが後戻りのありえないことであること、③しかも10年後、20年後に影響をもたらすに違いないこと、という3つの条件にあてはまる場合については、知ろうとすることに一定の意味がある、という。そしてこのようなすでに起こった未来とはなにかを明らかにし、それに備えることは可能である、とつけ加えている(『ドラッカー経営論集』上田惇生訳、1998、ダイヤモンド社)。つまり未来はすでに現在のなかに顔を出しており、そのなかから永続的な未来を形成する要素を見出すことができるならば、未来の変化に備えることは可能になる、といことであろう。
ここでドラッカーのいう3つの条件にあてはまるものとは、たとえば人口構造の変動が挙げられよう。一方では少子化、高齢化が、他方では人口爆発が、すでに後戻りのありえない圧力となって、全世界の教育、経済、食糧、環境等々にまで、永続的な影響を及ぼしつつあることは明らかであろう。日本では急速な少子化・高齢化が同時並行的に起こり、教育の制度や機能が基本的な変革を迫られていることは、さんざん指摘されているところだから繰り返さない。ただ子どもが生まれない、産めないという社会は、希望のない社会、少なくとも希望がもてないと意識されている社会といえるのではないか?、ドラッカーは先進国は一斉に「集団自殺」に向かっているとも言っている。
いま一つ、21世紀の教育に同様な構造的変化を及ぼすものと考えられるものに、ITに象徴されるような情報革命と結びついたグローバリゼーションの影響が挙げられる。インターネットが高等教育にどのような変革をもたらすかは不明確な部分が多く、またグローバリズムの行方についても識者の間で賛否両論や異論が戦わされている。しかし、この2つの潮流が21世紀の高等教育に、根本的な、光と影の影響をもたらすものであろうことは、否定できないように思われる。
というのは、インターネットの普及は、入り口から出口に至るすべてのプロセスに及んでくる潜在的な可能性をもつのではないかと予想されるからである。
たとえば入り口である学生募集、入学選考に、ネット出願やネット広報が通常化すれば、一定の時間や場所を限定する現行の制度は継続しがたくなるだろう。大学の情報は、単にホームページに載せているオモテの広報だけでなく、学科や教授陣の特徴や質の評価情報までも公開を求められることになるだろう。仮に大学側がこれを拒んでも、評価産業やメディアは学生の人気度や満足度、さらには他校とのランキングまでもネットで流すだろう。こうして大学の評価情報は世界中をかけめぐることになる。それは日本の大学が世界にむきだしに評価の対象にされるということであり、同時に日本の大学も世界の市場に投げ出されるということでもある。ここで学生確保をめぐって大学間の熾烈な国際競争がはじまることになり、学生の学校選択が大学の運命を大きく変えるであろうことは、すでに本欄(7月19日付および11月22日付)で指摘したとおりである。
村上 龍氏の『希望の国のエクソダス』(2000年、文藝春秋)には、2002年秋、日本の80万人の中学生が、インターネットを駆使した情報ネットワークとネットビジネスを通じて、世界注視のなかで学校と日本から集団不登校という形でエクソダス(脱出)する、という近未来の日本を描いている。中学生の数はおよそ400万人だから、約5分の1にもあたる中学生反乱である。その理由は「この国には何でもある。本当にいろいろなものがある。だが、希望だけがない」という中学生のリーダーの言葉に集約されている。
村上氏は、「現代について考えるとき、もっとも暗澹とした気持ちになるのが教育とメディアの現状」であるとし、それは「コミュニケーション・信頼が基盤になる教育とメディアが機能不全を起こしている現実」であると指摘し、「現代をめぐる絶望と希望を書き尽くす、という動機でこの小説を書き続けた」と執筆の意図を明かしている。
この小説はあくまでフィクションである。しかし、筆者はこれを単なる夢想とか、高等教育とは関係のないものとして読み流すことができなかった。むしろこの小説の随所にぞっとするような衝撃を受け続けたのである。
中学生はいうまでもなく未来の大学生である。ドラッカーが言うように、「未来は現在のなかに姿を現している」とすれば、日本の中学に絶望した彼らは、それでは数年後大学生になったときに、日本の大学に希望を見出すであろうか。言い換えれば、われわれはいまの中学生に、絶望ではなく、希望を見出せるような社会と大学を準備しえているのであろうか。20世紀末にこのような戦慄的な未来を描いた物語が出現したということは、日本にとって21世紀が希望と絶望の狭間にたたされた時代になるということを示唆しているのではないか。