アルカディア学報
シンガポールの高等教育―アジアの教育ハブを作る
シンガポールには、正確には日本で言うところの私立高等教育機関は存在しない。人口400万強の国に、シンガポール国立大学、南洋工科大学に続く第3の「プライベート」の大学として成立したシンガポール・マネジメント大学は、公的な支出に基づく大学であり、その意味では他の二つの国立大学と何ら変わらない。各大学やポリテクニクは、たとえば「シンガポール国立大学法」といった個別法により設立されている。その中でシンガポール・マネジメント大学は唯一の「私的」大学として、同大学のみに適用される法律は持つが、日本の私立学校法や私学振興助成法のような、私立大学一般を規定したような法律を持たない。
国の政府、国民の教育に対する関心は、人以外の資源を事実上持たない都市国家として、当然高い。厳しい選抜と教育アスピレーションの高さで知られる同国は、基本的には自国の高等教育を、公的資金に多くを依存する公的な仕組みの中で展開し、シンガポール・マネジメント大学が意味するところのプライベートは、日本でいう「法人的大学経営の導入」といった性格に近いものと考えられる。
このように、特に学士課程のレベルでは、国による公的な機関が高等教育を独占しているわけだが、他方で、私的な高等教育機関が全く存在しないかというと、そうではない。具体的には、大学院レベルと、遠隔地教育の分野で、知識産業としての「民間教育サービス」が展開されているのである。
シンガポール議会の経済検討委員会(Economic Review Committee)は、知識経済でのシンガポールのグローバル政策として、シンガポールをアジアにおける教育のハブとする方針を打ち出している。これは、教育をシンガポールの国際産業と位置づけ、消費者としての外国人学生を積極的に受け入れようというものである。まず、大学院レベルでは、政府機関である経済開発庁(Economic Development Board)が、世界のトップ大学をシンガポールに誘致するプログラムを実施している。このプログラムで実際にシンガポール・キャンパスを設置したのは、フランスのフォンテーヌブローにある国際ビジネススクールINSEADとシカゴ大学ビジネススクールであり、いずれも授業料は本校並み、教育内容も欧米と同じ水準のものを保証する仕組みを作っている。この他に、シンガポールの大学との提携等を通じて何らかの形で教育プログラムを提供しているものとして、マサチューセッツ工科大学、ジョンズ・ホプキンス大学、ペンシルバニア大学ウォートン・ビジネススクール、ジョージア工科大学、アイントホーヘン工科大学、ミュンヘン工科大学、そして上海交通大学、スタンフォード大学がある。これらのプログラムは、一方でシンガポールの大学との連携や、シンガポール人の優れた外国大学へのアクセスによって、シンガポールの高等教育の一層の水準向上につなげる役割を果たすと同時に、特にシンガポールでの単独でのプログラムを提供する大学に関しては、周辺諸国や欧米からも、多くの外国人学生が学びにきている。2002年に筆者がシカゴ大学ビジネススクールに取材したときには、日本人学生が六名在籍しており、これらの学生の中には日本から飛行機で頻繁に通っている者も含まれるとのことであった。
これに対し、遠隔地教育の分野では、より多様な学生が、国際教育産業の「顧客」として、シンガポールに拠点を置く様々な形の教育産業の発展を進めている。まず、オンラインのビジネススクール・プログラムを展開するのは、ユニベルシタス二一グローバルという、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学やオーストラリアのメルボルン大学など世界の11大学のネットワークとトンプソンという世界企業による出資を受けた機関である。これは、国際ビジネスのオンラインの顧客が東南アジア地域に広く存在することから、シンガポールを本拠地にしており、経済開発庁もその活動を後押ししている。
他方、より一般的な形では、中等後レベルの教育サービスとして、ディプロマ・レベルの教育や、外国の遠隔地教育をシンガポールで学習するにあたっての学習支援プログラムを提供するパターンである。筆者は、このような私立機関の一つ、TMC教育グループを2004年に訪問した。TMC教育グループでは、オーストラリアのモナシュ大学を始め、複数大学の遠隔地教育プログラムの学習支援を行っている。もともと広い国土を持ち、遠隔地教育の国内需要をもつオーストラリアでは、コンピュータのネットワークを通じ、オンラインによる学生の登録や学習支援などのシステムを発展させてきた大学が多い。TMCは、シンガポールの都心のビルの一角にコンピュータを完備した教室を設け、その風景はさながら日本の大手予備校や専修学校のようである。TMCでモナシュ大学の遠隔地プログラムを学習する学生は、モナシュ大学の学生として登録され、ネットワーク上でアカウントを持つ。モナシュ本校で作られたマニュアルに沿ってインストラクターが学生の学習を支援し、学生は通信教育の課題を行い、その結果はTMCを通じて本校に送られ、添削・採点されることになる。卒業証書は、モナシュ大学の遠隔地プログラムによる学士の学位取得を証明するものとなり、シンガポールやTMCといった文字や言葉はいっさい書かれない。すなわち、遠隔地教育である以上、世界のどこで受けても同じ制度ということになり、シンガポールでのスクーリングは、学習支援のための教育サービスということになる。TMCには、ディプロマを発行するモナシュ・カレッジが一応独立した機関として事務所を構え、また、メルボルン大学附属の営利部門であるメルボルン大学プライベートの展開する英会話学校の運営をTMCが請け負っている。TMC自体は、営利の株式会社として運営されており、その財務内容等については、株式会社としての財務報告がなされている。さらに、このような教育サービスの経営システムを中国の機関に提供し、中国においてこのシステムのフランチャイズ展開を進めている。
シンガポールには、TMCの他にもこのように多様な形で民間による教育サービスを展開する機関が相当数あり、これらは教育政策というよりも、産業振興政策のもとで、管轄されている。このことを如実に示すのは、これらの民間教育サービス機関の質保証の枠組みである。シンガポールは、大学が三つしかなく、個別に対応できる範囲であることもあり、国としての高等教育の質保証やアクレディテーションの仕組みをもたず、大学が自らの学位の質を大学自身で保証する、セルフ・アクレディテーションというあり方をとっている。他方、外国の学生獲得を進め、国家産業としての育成を図るには、何らかの国家的な質保証が重要になってくる。そこで、これもまた経済開発庁が主導する形で、一般的な企業のビジネスの質保証をになうスプリング・シンガポールという団体が、「私立教育機関のためのシンガポール・クオリティ・クラス」Singapore Quality Class for Private Education : SQC for PEOs)という特別のプログラムを策定している。この認定プログラムは、どちらかといえば、一般的な教育アクレディテーションというよりも企業的な品質保証モデルに近い。この認証を受けた民間教育サービス機関は、SQC for PEOsのロゴを機関のホームページや入学案内、広告等で使用することができ、政府から与えられる外国人学生枠が倍増され、留学生のVISA取得費用が免除される。このように、シンガポールの私立高等教育は、産業政策のもとで独自の発展を進めており、現在の多様性をます私立高等教育の中でも、特異な位置にある。